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オブジェクト思考ブロギング

"Mort de l'homme=Homo sapiens"

フーコーの"Mort de l'homme"は、「人間の終わり」と訳されることが多い。彼の研究対象としての近代の「人間」像だけでなく、hommeは何を意味するか。femmeは含まれるのか。など色々想像をかき立てるものがある。彼の研究対象だった近代の人間科学。その中の生物学におけるHomo sapiensをhommeとして想定してみる。"sapiens"(賢い)?...リンネ人生最大の、あるいは人類史上最大の一発ギャグ。面白いギャグだったけど、そろそろもうお仕舞いで良くない?と"Mort de l'homme=Homo sapiens"。Homo sapien/insapiens


"sapiens"(正気)?...満員電車に乗る度に、自分って狂ってるなと思う。少なくとも身体に対して適応的な行動はしていない。ある集団の規範に適応的であれば個体としては一時的に適応的でも、集団全体が長期的に適応的な行動をしているとは限らない。Homo sapiens...この言葉に「病識」は感じられるだろうか。Order is disorder, and disorder is order.


集団表現型を、個体表現型と分離して考える。非適応的な行動をする集団では、潜在的に「正気な」個体の行動は非適応的であったりする。Homo sapiens=insapiensであることも。もちろんsapiensかもしれない。宙づり。バイオロジーの延長(拡大)としての"Mort de l'homme=Homo sapiens"。神経科学(バイオロジーの深化)に対して。あるいは「個体」の終焉。「リヴァイアサン」の生物学。population genetics <-> population/corporate phenotype


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言語学・生物学・経済学:「人間」が主体であり客体でもある近代の人間科学(としてフーコーが捉えた枠組み)。この三つ組は、哲学・医学・法学の中世的枠組みから、形式知として表現しやすいもの、ロゴスとして表現しやすいものが抽出されてきたようにも見えてくる。一方、表現しにくいものは残ってしまう。少なくとも、医学に関しては、医科学=生物学として形式知が進展していくのが主流だ。表現しにくい残ったものをどう考えるか。

「土着性、友愛(フィリア)、ドクサというのが、三つの根本的特徴であり、哲学がそれのもとで生まれかつ発達する条件である。哲学は、頭のなかでは、これらの特徴を批判し、克服し、修正しているかも知れないが、依然これらの特徴のうえに指標をつけられたままでいる。」(ドゥルーズ『批評と臨床』プラトンギリシャ人たち)

「いのち、こころ、たましいというのが、三つの根本的特徴であり、医学がそれのもとで生まれかつ発達する条件である。医学は、頭のなかでは、これらの特徴を批判し、克服し、修正しているかも知れないが、依然これらの特徴のうえに指標をつけられたままでいる。」(ガレノス、医学者たち)


「やまとことば」(ひらがな)で表現されるものは主体の情緒を表している。英語(alphabet)は科学的対象としての客体の性質。その中間に漢字(江戸時代までの先進国としての中華の文字)を位置づける。中間あるいは直線の外に打つ。生活用語(ひらがな)、人文用語(漢字)、科学用語(alphabet)として。

いのち・こころ・たましい:bio-psycho-social
いのち・こころ・たましい:愛着・内省的自我・他者性=反応性

と考えてみる。