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ideomics

サブジェクト⇔オブジェクト思考ブロギング

トリニティとトリオ

「キリストの企ては個的なものだった。「個」(個人)と「衆」(集団)とは、それ自体として対立しているというよりもむしろ、私たち一人一人の心の中に、個の心と衆の心というかたちで、対立しあう二つの部分として存在している。ところが、キリストはこの私たちの「衆」の部分にはほとんど訴えてこない。」

「個の心を陶冶してゆけば、衆の心にひそんでいる怪物を追い払うことができると彼は考えていたのだった。策を誤ったというべきだろう。」

「ロレンスは、キリスト教の中心人物はユダであるという。その次に来るのがパトモスのヨハネ、続いて聖パウロ、というわけだ。彼らが押し立てるのは、キリストによってかえりみられなかったこの衆の心の部分からの抗議である。」

(以上、ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』ニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ

ここでのドゥルーズの解釈は、イエスが個の立場だけど、私としては、個(個人=原子, individual)vs衆(マス=熱力学的対象, social)の直線の外に、家族的紐帯(分子的繋がり, familial)の点を打つものとしてのイエスを捉えたくなる。個と衆の直線上ではないところに点を打つことで、individual-familial-socialの三角形(平面)になり、思考の次元を+1する。とはいえ、それは血縁家族そのものではない。家族的でありながら、非家族的、再結合的re-ligiousな関係。


シェーマ化するから、
individual:個人的・原子的・固体=個体的
familial:家族的・分子的・液体的
social:社交的・マス的・気体的



三位一体を三権分立に重ねて、トリニティをトリオ(父母子)に重ねる。父性・母性・子ども性のトリオを、一体性と個別性のトリニティとして捻ってみる。家族の一体性と個別性。家族性の三権分立:父性と母性と子ども性。


教会における神父Father・・・Motherの居場所はどこだろう。マリア信仰とコルカタの聖テレジア、そこまで至らないと「母」にはなれないとしたら、なんと厳しい世の中か。実際Motherと呼ばれる女性、教会の世界でどれくらいいるんだろう。10億人以上の共同体で、Papa (Pope)はいるのに、Mamaはどこにいってしまったの?という子どもの素朴な疑問。


FatherとMotherが尊称としてあるとして、子ども性にあたる尊称があったら面白そう。霊性を担うパート。Infantとか?拮抗のバランスとしての三位一体。エートスに対する三権分立的な意味合いもあるか(ethics)。