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ideomics

サブジェクト⇔オブジェクト思考ブロギング

実存方程式

自意識(思考)と自己(実存)との対話でΔt→0とすると、"Cogito ergo sum"と「思える」。しかし、実際にはΔt=0ではない。「(瞬間よ)とどまれ。お前はいかにも美しい」といっても、実際に時間は過ぎていく。自意識と実存の一致を志向するものとしての実存志向があるなら、内省でΔt→0とするプロセスは一種の訓練になるかもしれない。自意識(思考)と自己(実存)のラリーを瞬間的に、プロテニス選手のように瞬間的なショットで行うことによるΔt→0。対話を言語に限らず反応し合うプロセスと一般化すると、responsive-responsivilityとは、反応の時間Δt→0とする性能と言えるかもしれない。時間解像度を上げること。平たく言えば集中だけど。

”<記憶>こそは、自己との関係、あるいは自己の自己による情動の、ほんとうの名前である。カントによれば、時間は、そのもとで精神が自己に影響するような形態であった。ちょうど、空間が、そのもとで精神が他のものに影響されるような形態であったように。”(ドゥルーズフーコー』)


記憶。意識と無意識というよりは、記憶=引き出しのアクセシビリティ。すぐに取り出せる記憶から、思い出しにくい記憶、連想によって想起(再構成)される記憶、散逸した記憶。階層的でありつつ、ネットワーク的な記憶の連結。記憶とは、過去が折りたたまれているもの・・・∫dtとしての記憶・・・もちろん散逸するものも多い。たとえば、ツイッターのタイムライン。それぞれのつぶやきが、あるΔtの自我の痕跡で、その総体Σは、別なナニカ・・・現在とは別な自分・・・を見ているようで『告白』(アウグスティヌス)を誘発する構造を持っている。過去の自分(Δtであれ、Σであれ)=ひとつの他者と対面することで、現在の自分が変化する。

「<私>とは他者である……」(ランボー
<自己>は時間の中にあり、絶えず変化してゆく。それは、時間の中でさまざまな変化を経験する受動的な自己、というよりもむしろ受容的な自己である。<私>はと言えば、それは私の実存(私は存在する)を能動的に規定する行為(私は思考する)であり、だが、それがその実存を規定し得るのはただ時間の内部においてのみ、自分自身の思考の能動性だけをみずからに表象するような、受動的で受容的で変化してゆく自己の実存としてのみなのである。<私>と<自己>は、したがって、時間の線によって分離されており、この時間の線が、根本的な差異という条件のもとで両者をたがいに再び関係づけるのである。
ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について)


現在へと、常に過去を折りたたむ。現在(瞬間)には過去が折りたたまれている。そこから次の時間に移行する。re-current=再・現在な私/ワタシ。再現前re-presentと似てる。折りたたまれ続ける現在=過去。松尾先生の啓蒙本では、再帰的・自己言及的な処理が、意識の鍵では?みたいな話が書かれていたが、再帰的recursiveなプロセスでもある。時間によって分離・結合される<私>と<自己>:再結合的re-ligiousな私とワタシ。


意識は時間の従属変数であり、時間こそが独立変数だとして、
自意識=C(t)
記憶=∫C(t)dt
とすると、
d(C(t))/dt=f(∫[0,t]C(s)ds)
という感じだろうか。


処理としてはrecursive、時間的にはrecurrent・・・ヒトの記憶や意識にはそういう趣きがある。再現在re-currentな私/ワタシ。空間的には、自分と他人との関係が、自分(自我、自意識)と自分(自己、実存)との関係に折り返され、自分と自分との関係が、自分と他人との関係にまた折り返される。再帰的recursive。際限なく続く再現在、繰り返される再帰・・・永遠回帰でもある?


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The best way to predict the future is to invent it." (A.C. Kay)とすると、発明しないなら何しようが次善以下で、発明する気がないなら未来など考えるな、と言われているようにも思える。