読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ideomics

サブジェクト⇔オブジェクト思考ブロギング

自我と自己の対話としての個人:最小単位の再結合性 (re-lig-iosity)

個人 (individual)を、自分-自分関係=自我-自己関係と捉える。自意識(自我)と内なる他者(自己)との関係として。自我と自己・・・自我による自己への愛着・信頼・信仰、その応答としての自己から自我への愛着・信頼。自我と自己の対話としての個人individual・・・分割できないものでありながら、分割できるもの・・・自我と自己の分離と再結合 (re-ligation = re-ligion)。


ふと振りかえると、自分自身(自己)が自分(自我、自意識)にとって未知で、よくわからないものに思えてくる。カフカ『変身』では虫に変わってしまったが、そこまでいかなくても、よくわからない異物感が生じることがある。自意識による統治を重んじるか、他者の受容(未知の受容)を重んじるか、という好みの差はあれど*1

「いまや、自分自身が、自分にとって大きな謎となってしまいました。」(アウグスティヌス『告白』)


自信の「信」の意味を考える。自信の信を、信頼 (trust) や信仰 (faith) に解釈して、自信=self-trust/self-faithとして、信=愛とすると、自信=自愛。自分自身を愛すること。self-confidenceのfidere=faith。「信」が、信頼を超えた信仰に近いものだとすると、自信=自尊心=自己肯定感の背景として、自己に対して信仰的な感覚があるということにもなる。自信=自愛。としても問題はいかに自分を愛することができるか?

「自己愛については何ひとつ語られていなかったように見える。しかし、『隣人をあなた自身のように愛せよ』と言われているとき、同時にあなたの自分への愛が除外されているのではない。」
「神を愛する人は自分自身を愛さないでいることは出来ないからである。むしろ神を愛する人だけが自分自身を愛しうるのである。」(アウグスティヌス

「狭い意味での個人(偉人)には伝記が、主体には自伝が、自我には告白が対応する」
「単に自分が何を行い、感じ、考えてきたかということだけでは、自伝となっても告白にはならない。・・・そのことをまさにいま自分がどう感じ、どう考えているのか、それをこそ告白は語ろうとする。」(富松『アウグスティヌス <私>のはじまり』)


内省・・・自分自身と対話すること。対話のレッスン。内なる未知な他者と対話するレッスン。自分自身にアタッチメントを感じるレッスン。自己肯定感を育むにはどうしたら良いか?とよく聞かれて、いや俺が知りたいよ、と思いつつしばらく考えていたが、ひとつのアプローチではありそう。大人の内省能力が子供のアタッチメントレベルを高度に予測する、という話を読んだが*2、内省によってアタッチメントの練習をしている部分があるのかもしれない。


『告白』という形で過去の自分自身(今の自分から見ると他者)に対して、今の自分が何らかの関係を築こうとするのも似ている作業だ。自分自身に自意識から見た他者を感じるとき、信頼関係の原型になるような関係性が想定できる。自信=自愛として、自愛の一種としての自分の体への愛着作業を行うこと。ヨガみたく体にコンシャスになりながら動かしてみる、感覚を得てみる作業も意味がありそうだ。


当事者研究の「自分が自分の統治者になる」というのは、一般化する方向で面白い。障害disorderも一般化すれば、誰でも当てはまるわけだし。統治・支配への欲求をどれだけ「自分」とその「研究」に向かわせることができるか。自分=他者とすれば、その身近な他者の統治にフォーカスすることで、一種の対話を行うことになる。

*1:前者志向の人は禅に、後者志向の人は老荘に惹かれる印象だけど、まぁ印象

*2:『子どものこころの発達を支えるもの - アタッチメントと神経科学、そして精神分析の出会うところ』より