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サブジェクト⇔オブジェクト思考ブロギング

霊と魂:ビットからスピリットへ

近しい人の遺体に接する。当たり前に生きていたはずの身体(肉体)の中に、psyche(息・魂)を感じられなくなったとき、身体とは独立した非物質的なpneuma/spiritus(息・霊)を想定するようになる。実際、本とか絵とかで精神が伝わっていく人もいる。そこまで個人名が明らかでなくても、漂うspiritusは数多い。情報(精神)とメディア(身体)の関係の中で。身近な死の体験の頻度と霊性は関係してそうだが、そうだとすると、現代では(幸いにも)少ないが、「霊性」が一般的な医療とは反する部分があることになる。非医療的な意味での臨床性(床に臨むこと)の純度が高い、という意味での「臨床性」は高いのだが。


遺言と呼ばれるものが、財産分与の話だけであっては、確かにeconomic animalとしてanimaを終えることになってしまう。肉体からpsyche/animaが抜け出る前に、pneuma/spiritusとして「抽出」できないか・・・完全に心肺停止する前に、psyche(心)、pneuma(息、肺)を複製すること。psycheがpneuma/spiritusとなる「遺言」とは何だろう。


死に対するpre-ventionとpost-vention。言語、言葉、言霊。psyche/anima→pneuma/spiritusの産婆術。死に限った話ではない。瞬間瞬間に無限に分割すると考えれば、瞬間瞬間が比喩としての死になる。自分の意識の流れを時間軸に想定してみて、無限に切断することを想定してみると、生きてるんだか死んでいるんだか、よくわからない気分になる。情報(精神)とメディア(身体)の関係が転倒すると、身体とは精神の「単なるメディア」(交換可能なもの)というようにも思えてくる。


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もの主義者(ソマティカー)
魂主義者(プシュキカー)
霊主義者(プネウマティカー)
というオリゲネスの分類というのがあるそうな。元はナザレのイエス氏に対する解釈のあり方の意味のだようだが、一般化してフレームワークとして考えても面白い。魂(anima/psyche)と霊(spiritus/pneuma)を区別する。単なる衒学的な意味だけでなく、「たましい」を見る性能を、social cognitionと考えると、かなり現代的な意味を投影することができる。特性という継続的なものだけでなく、環境や状況に依存した「状態像」としても考えるこもできる*1

「霊は生かし、文字は殺す」

非文字での思想。絵画なり彫刻なり音楽なり色々あるけど、霊性重視の感性が美術と言われるものを培った培地cultureとも思えてくる。モノに魂(anima/psyche)を見ることがアニミズムとして、モノに魂を吹き込むことがアニメーションとすると、いわゆるアニメに対して3次元に存在するぬいぐるみ(遊び)という存在が面白い。鞄にぬいぐるみたくさんぶらさげてる人見ると、この人「霊性」(何かに魂を想定する心性・性能・能力)高いんじゃないかなーと思うことがある。魂を吹き込む作業に手慣れているというか。アニミズム(認識、理学的)→アニメーション(創作、工学的)。これに共通する「たましい」の認識をモノとは独立な純粋なものとして取り出したものとしての霊spiritという概念。この霊性をどれだけ機械や計算論に投影できるか。

アトムからビットへ
ビットからスピリットへ

論理値のカタマリが、ヒトにとっての精霊・魂のように振る舞えるか、というpneuma/spiritus, psyche/animaの課題。ビットがスピリットになるか。

*1:例えばリヴァイアサンに絡められたとき、ヒトはどうなるか?