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オブジェクト思考ブロギング

『プロテスタンティズムの精神と貨幣経済の倫理』&『カソリシズムの倫理と社交資本主義の精神』

貨幣によって共同体からの切断が可能になったとしても物質的な面が大きく、精神面ではもしかするとルターはじめ源流のプロテスタンティズムの論理によって広汎な「個人化individualizaion」が可能になったのかもしれないとふと思った。力点を神と個人の直接的な関係(集団を通さない)に置くことによって。文芸・美術中心のルネサンスが個人の固有名詞(個有名詞)を中心に据えて語ると同時に、内面での「個人化」を可能にした思想である可能性を考える。「個人化」の同時多発。集団からの個人の切り出し。


実際には印刷技術で広汎な個人読書が可能になった、というテクノロジーによる作用が大きいかもしれない。本というメディアによる個人化。人々がともに語り合うという集団でのコミュニケーションから、個人だけで1人で文字が読める段階になり、そしてそこから更に黙読できる段階になると、個人化の階段をさらに一歩上がる感じがある。識字と黙読。黙読ってある種精神界への引きこもりだし*1。とはいえ、最初の活版印刷普及がルターによるドイツ語聖書であったとすれば、内容と形式(メディア)は密接に関連していて、どちらか独立の因子として捉えれば良いというわけではないだろう。


メンバーの固定した集団(community)から、社交的(social)な関係を経ることで、徐々に社会的(societal)関係へと社会化され個人となっていく過程を思春期と重ねる。分子から原子を取り出すイメージ。socialであるべきところでcommunityの枠組みが強いと、集団内にひずみが出そうではある。あるいは個人として独立できない。可愛い子には旅をさせよ、という言葉は含蓄深い。


しかし個人化は利点も多いが、ソーシャルな要素は力点としては下がる。個人主義が強くなると繋がりは減りがち。個人化の代償としての『自殺論』。カソリックプロテスタントの差異はイチローカワチ博士らが大規模コホートで示している。
Association Between Suicide and Religious Service Attendance Among US Women | Psychiatry | JAMA Psychiatry | The JAMA Network


その繋がりを埋めるものとして可能になった、あるいは必要とされたものとしての貨幣を想定してみる。貨幣が再結合的 (re-ligious) に働く。共有結合というよりは分子間力くらいで。内面における「個人化」により、より促進される貨幣経済。コミュニティから個人が切り出されることで、貨幣が再結合的なメディアとして必要とされる。パロディ化するなら、『プロテスタンティズムの精神(個人主義)と貨幣経済の倫理(再結合性religiosity)』。プロテスタンティズムと印刷技術=活字本というメディアのかけ算で。


しかし、貨幣でソーシャルキャピタルの完全な代理は難しい。ある程度カバーできるにしても。個人化を進めると同時に、社交化の形も考えないといけないのだろう。個人の独立 (in-depedent)から、再結合的 (re-ligious) なinter-dependentを。切断し再び繋げる再結合性 (re-ligiosity)。活字本による出版資本主義との関わりで言うと、『想像の共同体』が要請されるように。性愛は再結合的であるが、多くは儚い。しかし重要な再結合性であることは間違いない。


健康でいる頃は、個人化の一本槍でいけるし、そちらの方が気が楽。しかし、何かの「障害」を抱えると厳しい。「障害」と言っても、例えば子育ても障害だらけなので、子育てを多いに含む。実際子どもって、内なる「自然」であり、orderの世界にdisorderを持ち込む存在なので。これは、おもちゃで散らかった部屋を見れば視覚的表象として一目瞭然だ。これまたパロディ化するなら、『カソリシズムの倫理と社交資本主義(ソーシャルキャピタリズム)の精神』が必要になる。とはいえ、多くの人にとってはカソリックそのものに入信するのはさほど現実的な選択肢とは言えない。カソリシズムの特徴を理解するところから始めたい。個人と社交関係を媒介する倫理と精神とは何だろう。

*1:ローマのキリスト教化の過程が気になるが、ウィキペディアによるとアンブロシウスが「歴史上初めて黙読をした人物」らしい。初めてという部分は置いておいても、黙読って声(対話的)なところからのある種の「引きこもり」なわけで、黙読のもたらす精神性というのは気になる。