ideomics

サブジェクト⇔オブジェクト思考ブロギング

愛着のレッスン

生まれて初めてiPhoneというものを所有したんですが、これは本当に素晴らしいですね。タッチパネルの官能性がすごいです。指で動かす度にゾクゾクします。まさにこんな感じ。


iPhoneの官能性:見た目の美しさだけでなく、こっちの動きに対して反応(response )があるという実感も大きそう。レスポンスがある!みたいな。call and responseに似ている。response + ability = responsibilityとしてのresponsibilityがある。機械でありながらダイアローグ的。極端なこと言えば、生命観ならぬ機械観が変わる。美的な官能性と触覚的な官能性。後者にはcall and responseなダイアローグの成分がある。


美しいもの、官能性の高いものに愛着を覚える。いや、愛着を覚えるものを美しいと言っているだけか。「可愛い」なんて表現はまさにトートロジーなわけだし。美しいもの、官能性に高いものに触れることは、愛着のレッスンと言っても良いのかもしれない。美術=愛着のレッスン。触覚美術の可能性*1


philosophia: sophiaが知として、philo-が愛着 (attachment) とすると*2、知を通して愛着を学ぶ訓練の過程とも言えるかもしれない。一般的には、philo-"sophia"と知の部分に中心があるが、"philo"-sophiaと愛着の部分に中心を置く。知という客体になりえるものに対し、愛着という主体的なものに中心を置く。美や官能と同様に、philosophiaも愛着のレッスンと考える。高等教育の世界では適当ではないだろうが、初等中等教育の世界ではそれが良いような気も。


しかし、愛着 (attachment) という表現、ロマン精神と合理思考の中間表現として絶妙だ。愛という言葉ほど感情をかき立てないし、機械の取り付けという機械論的な表現でもあり。原子間同士の接合としての分子とも通じるし。貨幣が水素結合的なのに対して愛着が共有結合的という感じがある。愛着の成分として、恋と愛があり、恋(乞い?)がanticipatory pleasure、愛がconsummatory pleasureとすると、日本語なの使い分けなかなか面白いし、分析的に見るフレームワークにもなる。。


愛という「人間的、あまりに人間的な」ロマン精神に浸かりながら思考の明晰さを保ち続けるのは難しい。善意や愛という言葉には思考を中断させるものがある。そこで安心して止まってしまう。反面、こういった表現にかなりネガティブな転移をもつ人も多い。道徳教育的なものへの反発かもしれない(まさに定義通りの転移)。「男子的、あまりに男子的な」反発。愛=博愛と極端な白黒思考をしてしまうと、それはほとんどの人には不可能。しかし周りを少し見てみれば、小さなレベルでは日常にありふれたものだ。Love actually is all around.


愛という感情には、一種キャピタルとしての性質がある。最初に蓄積があれば、「投資」と「回収」のサイクルが回っていくけど、最初の蓄積がないとその後も「貧しい」ことが多い。例外はあると思うけど。愛を「ソーシャルキャピタル」に繋げたりすると、安っぽく見えるけど、実際ソーシャルキャピタルを構成するものは愛着に他ならないように思える。安心して止まるのでもなく、反発して否定するのでもなく、分析的に見る必要性がありそうだ。


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「土着性、友愛(フィリア)、ドクサというのが、三つの根本的特徴であり、哲学がそれのもとで生まれかつ発達する条件である。哲学は、頭のなかでは、これらの特徴を批判し、克服し、修正しているかも知れないが、依然これらの特徴のうえに指標をつけられたままでいる。」(『批評と臨床』プラトンギリシャ人たち)

ドゥルーズによると、philosophiaは、知sophiaとの友愛(philia)であり、知の「友」であることらしい。賢者のように内面化されたものでもなく、科学のように無数のものと共有するものでもなく。所有するでもなく、完全に客体化するでもなく。距離はあるが結合的な。友とは固有名詞の関係であるように、固有名詞が伴う関係。賢者のように内面化されたものでもなく、科学のように無数のものと共有するものでもなく。所有するでもなく、完全に客体化するでもなく。距離はあるが結合的な。友とは固有名詞の関係であるように、固有名詞が伴う関係。

*1:俄然タンジブルビッツに興味が出てくる

*2:実際は親和性とかに近いらしく、解釈の要素も大きいかもだけど