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サブジェクト⇔オブジェクト思考ブロギング

ハロウィン: 狩猟採集と農耕

ハロウィンって、ケルトの収穫祭だか死者との交流だったらしいけど、キリスト教文明に押されたケルト文化(文明?)が、部分的な形でなぜか日本にまで「残存」しているのちょっと面白い。現生人類の中のネアンデルタールゲノムみたいだ。三位一体の聖霊という話は、キリスト教の土着化のための戦略的レトリックだと思っていたけど、ケルトとか聖霊側の立場に立つとシミュレーションしてみると、敗者の生存戦略とも思えてくる。


どこかでケルト=森、ローマ=石、という対比がされていたが、象徴的な言い方から説明的にすると、狩猟採集と農耕の関係だろうか。実際はケルトだって農耕やってるだろうけど、ひとつの対比として。狩猟採集では森は恵みだが、農耕では邪魔になる。森の扱いが真逆になる。農耕では、森というより生やす(はやす)もの=林、になる。コントロールするものになる。宗教的にはアニミズム一神教で対比されるけど、狩猟採集と農耕の対比が唯物論的な基盤とえいるか。


昔はまったくハロウィン興味なかったけど、子どもが魔女だゴーストだと盛り上がってると、結構楽しいじゃんと変わる。今までは西洋人でもクリスチャンでもないのにローマ/キリスト教的な見方をしてたのかも、ケルトからの見方もあるんじゃないかと思うようになった。ケルト・ローマが狩猟採集・農耕で綺麗に分けられるわけないけど、狩猟採集で自然の恵みを享受していると、自然崇拝・アニミズムに寄り、農耕で自然を制御しようとすると、自己努力・規律に寄る、というのはありそうだ。


子育てって、文明の中にある「自然」への反応と似ている。子どものどうにもならない感じって、「自然」に似ている。コントロール欲求があるときにうまくいかないと怒りが出てくる。コントロール欲求がそこまで強くなくても、意図通りいかないと悲しくなる。「自然」と考えて、それを享受すると考えると、アニミズム的に考えると、少し楽になる。むしろ楽しくなる(時間に余裕があれば)。「自然」への反応・・・能動性activityと受動性passivity。


ダンバー数の設定に支持的な話として、狩猟採集民族の集団を構成する人数があったと聞く。ダンバー数以下のsocialな関係として狩猟採集があったのに対して、農耕によりダンバー数以上のsocietalな関係が可能になった、あるいは要請された。狩猟採集集団がダンバー数以下で形成されやすいとすると、文字の必要性は少なく、声やウタがその分発達した。集団規模が大きくなるほど文字の必要性が上がる。と考える。文字:書字が活字になり、印刷時、映字(ディスプレイの文字)となるのは技術の進歩だけによるか。societalな関係に対してsocialな関係を考えようとするにあたって、狩猟採集集団の関係って興味深い。


ダンバー数で切断するsocialとsocietal。会社組織でも、ダンバー数以下の仲間companyと企業体corporation (語源も体?) を分けて考えたくなる。狩猟採集的なビジネスと、農耕的なビジネス。プロジェクトとライン。socialとsocietal。超越的で未知な「自然」の中で探索的にやるには適度な規模での声のコミュニケーションが必要。コントロールしていくには文字での管理。もちろん現代のテクノロジーは境界を曖昧にする。


U2アイルランドのバンドと知り、ちょい調べたら、ビートルズも国籍こそ英国であれ、アイルランドオリジンな人々らしい(ビートルズアイルランドで検索)。ハロウィン繋がりでケルト性に繋げるのはさすがにやり過ぎ感があるけど、声の文化伝承が背景にあったりするのかもしれない。声の文化と文字の文明。socialとsocietal。ロックという声の回復。


狩猟採集というと未開なイメージもあり、現代文明からは想像しにくいものがある。これを文化ではなく文明として捉えようとすると、かなり想像力いるし、ケルトとかジブリは良い補助線になりそう。「幾何学への意志」としての文明という位置づけとともに*1

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そいや現代でも狩猟採集に相当する食べ物の捕り方があった。漁業。海はまだ「森」であり、「自然」である。(養殖とかあるけど)


と書いてきて、実際ケルトが狩猟採集の文化かどうかはかなり怪しい。思い込みなだけな可能性が高い。

*1:幾何学がgeo-metry(地面の測定)とすると、土地の測量が必要になるシステマティックな農耕という背景があって存在しえるともいえるか。