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オブジェクト思考ブロギング

成長のらせん階段:psycho-archaeology

魔女の宅急便

子どもの時にも楽しく観たがが、親になって改めて見ると視点が変わりすぎて面白い(子どもの自立というテーマに向かって。自分も自立しているのか怪しいんだけど)。特に最後のシーン、魔女と人力飛行機が併走飛行している。思考パターンの発達や歴史を感じさせる。

「魔術」から「芸術」と「技術」への分化、という歴史の進展。物質的に驚かせるものを作る「技術」と、精神に直接訴えかける「芸術」。いずれも極まると魔術的になる。歴史の解釈と同時に、魔術的思考から、現実的思考に変遷する前思春期~思春期の心性が、自分の過去と子どもの将来として重ねられる。まさに「セカイノオワリ」とか中二病


魔女の宅急便』では、技術の代表として人力飛行機が描かれるのに対し、芸術の代表としてウルスラ(19歳の女性絵描き)の絵が提示される。とても好きなワンショットだ。この絵は、とある養護学級の共同作品『虹の上をとぶ船』(青森県立美術館)に加筆したものらしい。

人類の歴史を振り返っても、錬金術占星術といった魔術的思考があった(今もある)。今から振り返ってみると、「間違い」だらけで、意味がなかったように見える。しかし、それは発達過程として意味がなかったか・・・そうは思えない。西洋の隆盛を支えた下準備として、溢れんばかりの魔術的思考が要素のひとつとしてあったりはしないか。爆発する魔術的思考が描いた世界を現実化させることで、政治・文化・技術が大きく進展していくという関係があったりはしないか。魔術的な想像力は、芸術の下地なだけではなく、現実にある政治や制度、技術や認識についても大きな下地になるはずだ。ロジカル・シンキングならぬマジカル・シンキング。そして、技術-芸術-魔術というフレームワーク

Fair is foul, and foul is fair. (witches from "Macbeth")
Real is virtual, and virtual is real.


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歴史を直線的にではなく地層的に見るアルケオロジーの手法を、人の発達に重ねる。発達・歴史を地層と見る。魔術的思考が眠っている地層があるものと想定する。『インサイドヘッド』ではイマジナリーフレンドのBingBongが成長への踏み台になっていた。想像上の「実在」としての強度。物理的実在physical entityではないものの心的実在psychial entityとしての明確さ。


成長がらせん階段とすると、子供ができるというのは、らせんが一周回るのに似ている。物語、神話、神学、哲学、科学。。。思考パターンのらせん階段。『トイストーリー3』でも、出てくるオモチャを思考パターンや思考の型の喩えととらえると、成長とともに思考のパターンを変えていく(幼い時の型を捨てて卒業していく)とかその型をより幼い者に伝えていくという話になって、成長とか発達のたとえ話として捉えられる。


年齢や生活環境とともに適応的な思考の型が変わっていく(そのままだと不適応だったりする)。発達段階ごとに可能な型や適応的な型が異なる。子供と接する時にいかにも大人な思考パターンで接するのは適切ではないことが多い。変化するにしても昔の思考パターンは成長の踏み台として機能している。それに変わっていくと言いつつも自分のコアにある思考パターンみたいなものもおそらくあって、お気に入りのぬいぐるみをずっと大事にしているのにも似ている。ジブリとかピクサーとか、「子供のオモチャ」を大事に取っておいて、それをより幼い者にあげていくタイプ。実際、彼らの部屋の写真とか見ると、文字通りオモチャでいっぱいだったりするしね。過去は現在に折りたたまれて存在し続けている。

過去は死なない。過ぎ去ってもいない。

子どもがハロウィンのせいか魔女やゴーストに凝っていて、リアルに存在するものとしてファンタジーの世界に生きている。昔はこういう話に合わせるの全然無理だったけど、結構楽しいもんだと変化した。改めて、古代復興よろしく幼児期をひとつの理想と捉えて、その「復興renaissance」を考えるのはひとつのアプローチかも、と思い直す。

自分の声を見つけなければならない - ideomics

物語storyの前に、語り・話術narrativeがあるというのは発達の流れを見ても理解できる。ストーリーを理解するのはそれなりに成長してからでも、その前から語り口には反応する。そしてその前に音楽。1歳台でもアウアウしながら(踊りながら)歌う。カズオ・イシグロの「自分の声voiceを見つけなければならない」というの、更に踏み込むと、「自分の歌を見つけなければならない」と言えそう。


子どもと街中歩くと、子どもは歌いながら歩くが、なかなか一緒に、とはいかない。音痴ってこともあるけど、なんでだろうか。イタリア旅行してた時は、おじさんが普通に歌ってたりしたんだけど。(そいつが上手いってのもあるが)学生時代、友人が連れてきた沖縄の友達(歌い手)が、普通にしゃべりながら、興に乗って段々と詩→唄→歌とシームレスに変化していったのは未だに覚えてる。あれは凄かった。まさに『「つながり」の進化生物学 はじまりは、歌だった 』という感じだ。

ルネッサンスの画家のように絵を描くようになるまでには数年かかった。子供のように絵を描くまでには一生かかった。(パブロ・ピカソ



やさしさに包まれたなら - 荒井由実(松任谷由実)

小さい頃は 神様がいて
不思議に夢を かなえてくれた
やさしい気持ちで 目覚めた朝は
大人になっても 奇蹟は起こるよ

カーテンを開いて 静かな木漏れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目に写る全てのことは メッセージ*1


小さい頃は 神様がいて
毎日愛を 届けてくれた
心の奥に しまい忘れた
大切な箱 開くときは今

雨上がりの庭で くちなしの香りの
やさしさに包まれたなら きっと
目に写る全てのことは メッセージ

*1:様々なことを徴候signとみなすのは、過剰になると逸脱とみなされるが、一方で知的な活動のsense of wonderとして重要なものでもある。sense = salience。saliencyがあまりに過剰・逸脱した状態もある。この状態をどう呼ぶかは置いておいても、「目に写る全てのことはメッセージ」な状態とすると、developmentalな視点として示唆的だ。