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オブジェクト思考ブロギング

適応戦略としての「生物学的」精神医学

 

精神医学において「病気」「異常」という概念は常に問題になるが、2014年現在の専門家のコンセンサスとしては、「障害disorder」という概念、「自分または他人に害がある状態」をひとつの基準として現象を捉えていると言える。つまり、本人の状態そのものだけで定義されるというよりは、環境との齟齬を問題にしている。「障害disorder」という言葉は、より即物的には、置かれている環境に対して「不適応」な状態にあるという表現になる。

 

正常orderと異常dis-orderという言葉は、個別的な対策のなかった時代には隔離のためのラベリングとしてプラグマティックな意味を持っていただろうが、技術や思想が発展し隔離以外の手段が登場すると、適応・不適応といったより高い解像度のプラグマティズムが適切になる。正常と異常という「人間的、あまりに人間的な」捉え方は、日常でなんとなく使ってしまうものの、プラグマティックに適当でないだけでなく、進化スケールでの生物の歴史でプロスペクティブに見てみると、事実の記述的表現としても必ずしも妥当性が高くないことにも気づく。物理化学、生物学、医学、医療、保険医療は、それぞれ別な体系を持っているが、後者になるほど価値の議論になる。社会的に難しいのは、医療と保険医療の境目だが、「専門家」としても原理的な取り扱いが難しいのは、生物学と医学の境目だ*1

 

不適応な状態であることを一旦本人の物質的な問題として解決を計るのが薬物療法とすると、認知行動療法ソーシャルワークという営みは、不適応をもたらす認知の仕方や行動、生活の仕方そのものをターゲットにしてインターフェイスを変えていくことで、環境と自分の齟齬を改善していくアプローチと言える。言うなれば、「本質」はとりあえずそのままで良いと思って、インターフェイスを変えていったら、「本質」などはタマネギの皮だと気づくような感じかもしれない。そして、そもそも「根治」とは何であったのか、という問いを提出することになる。

 

「生物学」的精神医学というと、ゲノム・脳構造解析、分子プロファイリングをして、「根治的な」薬物療法を目指すといった印象となりがちだが、生物学には色々種類がある。例えば、進化論、生態学、行動学。ヒトも一種の動物ではあるので、こういった分野から、ヒトの精神活動と呼ばれる領域を考えるヒントを得られるかもしれない。いわゆる実験は少なく、主に観察と解釈に寄る傾向があり、憶測の嵐になる可能性はあるけれど。

 

例えば、都市部では統合失調症はじめ、精神疾患の発症率が高く、また罹患が長引きやすい傾向が知られているが、これも進化における適応の問題として捉えられるかもしれない。進化的なスケールで考える時のヒトは、いわゆる自然環境に適応してきているはずなので、音刺激・光刺激・人刺激(社交刺激)は、現在の都市生活より少なかったはず。生活リズムに関しても、日照ベースのリズムと、今の都市生活のリズムは大きく異なるだろう。人が過密な場所(満員電車など)がストレスフルなことは実感としても広く知られているが、これがマイルドなレベルでどの程度生活に影響があるか、というのを考えてみてもよいかもしれない。考え方によっては、都市のような刺激の多いところに適応できる方が「適応できすぎ」(凄いことだ)という捉え方もできる。仮にそうだとすると、都市で不適応なヒトは、非都市的環境で過ごすことが適応戦略となる。もちろん居住の移動はとても大変なのは言うまでもないけど。

 

被害的であることも、個体が弱ければ弱いほど過去には適応的だった可能性がある。現代の人間社会のように安全が高度に保証されていない生活であれば、脅威が多く対抗できない状態なら危険は過剰に見積もるしかない。そもそも学習的な行動も、脅威を何かと結びつけるところから適応的な意味をもったとも考えられる。生存に直結するから*2。マウスが物音に敏感で、ちょっとしたことにも警戒するとしても、誰も「異常」とは思わない。太古においてほ乳類の地位はさほど高くなかったから、こういった行動は、進化の古い時期からあった可能性がある。仮に現在問題があっても、過去には適応的な仕組みだったとすると、被害的であることは、何かのシグナルと考えても良いかもしれない。もちろん、過去に適応的だった仕組みが文脈を無視して暴走しているという解釈で、とりあえずは良いのだけど。

 

居住レベルの大きな話でなくても、
コミュニケーションのスペクトラム - ideomics
のようにコミュニケーションの質的な違いも適応に大きく関係するだろう。これもどのような環境に置くかで、適応・不適応が大きく変わる。そもそも、現代の都市生活のように村社会ではありえなかった数の人と社交する環境も、動物としてのヒトには手にあまることとも言えそうだ。

 

妄想と現実の境目って、本人は整然と理解してるつもりだろうけど外から見ると境界が曖昧、というケースが思いの外ある。幼少期の「おばけ」や古代人の宗教的な信念は、一旦距離を置いてみれば文化の違いでしかないが、これを会社で聞いたら妄想と思ってしまうだろう。妄想と現実の境目は思ったりより明確ではなく、認識の整合性を確認していくことで、徐々に境目つけていくしかない。整合性確認作業をしていかない(できない)と、幼少期の状態のまま大人社会に突入するし、ストレスが強い状態、あるいは不安・恐怖が強い状態では、それが加速する。

 

「病識」という言葉があるが、これは「適応・不適応に関する自己認識」と捉えた方が良いだろう。病名の認識というよりは、より解像度の高い適応に関する自己認識。昔から「彼を知り己を知れば、百戦危うからず」というように。観察者の「了解」という概念があるが、これを進化的なスケールまで拡張すると、想像的なものではあるが、「進化論的な了解」という了解概念も成り立つかもしれない*3。生物学的という言葉がすでに一定の含意を持っているとするならば、環境との関わりと適応を重視する見方は、ecological psychiatry(生態学的精神医学)とかethological psychiatry(行動学的精神医学)と言うべきか。実際、行動分析という形で、実践例もあるようだ*4

 

行動分析学入門―ヒトの行動の思いがけない理由 (集英社新書)

行動分析学入門―ヒトの行動の思いがけない理由 (集英社新書)

 

  

「適応・不適応に関する自己認識」が全員自分でできれば苦はないが、必ずしも向いていないヒト・状態がある。自分の意識や観察者の主観に依存しないで、「客観的」かつ「測定可能」なものを基盤した適応のシステムがあれば、有用であろうし、解釈に依存しがちな行動分析を、よりロバストなものにすることができる。医療工学が、なくなったものを作り直す工学で、福祉工学がなくなったものを所与として他で補う工学とすると、その両者の面を持ちつつ、美点を強化するような教育的な効用があるものが、精神・行動の領域でも必要になってくるだろう。

 

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ソロモンの指環―動物行動学入門 (ハヤカワ文庫NF)

ソロモンの指環―動物行動学入門 (ハヤカワ文庫NF)

 
攻撃―悪の自然誌

攻撃―悪の自然誌

 

コンラート・ローレンツ(医師・博士)。

 

彼の本を読み進めると、ヒトと動物の連続性を実に知らなかったんだなと痛感する(もちろん現在となっては記述に間違いもあるのだろうけど)。ダーウィンを笑ったヴィクトリア時代の人々を私は笑うことができるが、ついつい動物とヒトに境目を設けてしまうとしたら、意外と彼らと変わらないのかもしれない。いまだ我らヴィクトリア朝の人間。ヒトと動物の連続性というと、いかにもヒトを貶めているように聞こえるが、彼の本を読めば逆であることがわかる。つまり、動物をヒトに近い水準でリスペクトしているわけだ。この世界においては、「モデル動物」とは、全ての動物のことなのだろう。動物の行動というレンズを通して、ヒトの行動を見る。記述に溢れる愛情と巧みさから、ノーベル生理学賞と文学賞が連続的なものであることがよくわかる。すなわち、官能的理解(感性)と機能的理解(了解)、構造的理解が連続的なものであることが。

 

*1:疾患概念、自分が思うより深く自分の思考を規定してしまってるんだな、と反省することはしばしば。人間界の価値に基づく分類としての医学と、神学(自然神学)のごとく人間に対して超越的な理を捉えようとする営みをついごっちゃにしてしまう。多かれ少なかれ人間という観察者である以上仕方ないところもあるけど。

*2:身体的に強い個体は、知能を発達させざるを得ない状況になりにくい。「弱者の兵法」というけど、弱者でなければ兵法はそこまでいらない。

*3:ヒトが発達とともに精神・行動を変化させていくことを含めると、発達的了解という概念もありかも

*4:成果については知らず。教えて頂けると助かります