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オブジェクト思考ブロギング

生き物を理解するということ

 

「形態は機能に従う」

 

デザインの世界でよく言われることだが、生物の世界では、発生過程として逆の可能性が高い。すなわち、突然変異や色々な要因である形態(構造)が生まれると、環境によって合目的性(機能性、適応性)を獲得することがあり、「結果としての」機能が生まれ、それが環境に対して適応的であれば、「形態は機能に従う」形で進化していく。

 

生物学が他の物質科学(物理や化学や地学)より工学に近い点として、「機能」という概念がある。ある事物・現象に対して、「構造的理解」と同時に「機能的(合目的的)理解」が必要になる。同じものを同時に2つの視点で観る。生き物の世界から見ると、他の物質科学(物理や化学)は、構造にフォーカスした体系とも言える。例えば心臓は、構造と機能が一対一に近い対応するため、理解がしやすい(構造的理解は、構造の変化も含める)。人工物が「わかりやすい」のも、おそらく構造と機能が一対一対応するからで、例えば掃除機など。

 

一方で、生物は合目的な設計が初めからあるわけではない。既存の構造を色々転用していって、適応していく(新しい機能を獲得していく)というのが、ある意味生き物の本質とも言える。生き物への理解の難しさは、意図せざる結果として合目的性が生じ、それが進化的に強調される方向に加速することがあるという、「意図せざる合目的性」を考える必要があるという点がひとつにある。人工物の合目的性は大抵「ヒトが意図した合目的性」なので、ヒトにとってわかりやすい*1。人間にとっては、構造と機能が一対一対応してくれないとなかなか明晰には捉えられないのかもしれない。

 

逆に言えば、構造と機能が一対一対応するような形で現象を理解する(人工物の工学的な理解に落とし込む)というのが、生き物への理解のひとつの王道となる。インスリンという分子だけで機能の説明ができなければ、インスリンを含めたパスウェイやマシーナリーを考えることで、可能な限り構造と機能を一対一対応させる。パーキンソン病であれば、黒質ドパミン分泌細胞の脱落と、それが構成する回路の理解という構造的な理解によって、パーキンソン症状という機能的な理解をある程度は達成している*2。これはドパミンだけや、ドパミン分泌神経細胞だけに注目しても、機能と一対一対応しないし、見えてくるものも明瞭でない。という意味で、生物学は、科学と人工物の工学に片足ずつ突っ込んだコウモリ的な学問と言えるかもしれない*3。さらに反転して考えると、人工物でも構造と機能が一対一対応しないものほど、「生き物的」な印象を持ち、いわゆる工学から外れて、場合によっては芸術作品と呼ばれたりするのかもしれない*4

 

構造はその事物なり現象だけを解析すれば事足りるけど、機能(合目的性)は、周りの文脈も理解する必要があるので、理解の難易度は上がりがちだ。掃除機にしても、構造を解剖するだけなら、掃除なるものを知らない人でもとりあえずできるけど、掃除という機能を理解するには、その文脈も含めて理解する必要がある。これは環境とかアフォーダンスが原理的に関わることを意味している。そして、生物の機能性の判断基準は究極的には、個体・集団の生存と繁殖の適応性ということになる。

 

理解の上で問題になるのは、構造から始めるか、機能から始めるか、というところだ。端的に言えば好みの問題になるが、それぞれ長所短所がある。構造から始めるのはとりあえず解析はしやすく、とりあえずわかりやすい。しかし、それが機能と対応するようなものである保証はない。機能から始めるのは、機能という生き物としての重要性が保証されているものの、構造が対応するかどうかの保証もなく、抽象的で、かつ観察者の主観に左右されやすい。ともすると形而上学に走りやすくなる。特に精神現象への言説は形而上学に傾きがちだ。自然科学は物質科学をベースにしているので、構造からのアプローチが手堅く、「職業としての研究者」に多いアプローチになるが、それだと「生き物」を対象にしている意味合いが薄れてくる。機能と一対一対応するような構造(または構造変化)で理解することができれば、文字通りの一段上の理解になる。 

 

      *****

 

昆虫学者アンリ・ファーブルが生きた時代-19世紀から20世紀初頭にかけて-生物学は音を立てて、より分析的に、より還元主義的な方向へ、突き進んでいった。・・・しかし解像度が上がれば上がるほど、本来優れてヴァイタルなものである生命の実相とはかけ離れたものへの傾斜が強まることになる。・・・ファーブルはそのことについて極めて自覚的だった。先鋭的ですらあった。彼は高らかに挑戦状を叩きつけている。

「あなた方は虫の腹を裂いておられる。だが私は生きた虫を研究しているのです。・・・あなた方は研究室で虫を拷問にかけ、細切れにしておられるが、私は青空の下で、セミの歌を聞きながら観察しています。あなた方は薬品を使って細胞や原形質を調べておられるが、私は本能の、もっとも高度な現れ方を研究しています。あなた方は死を詮索しておられるが、私は生を探っているのです。」(『ファーブル昆虫記』奥本大三郎訳)

 

日本経済新聞 2014年10月12月 福岡伸一「虫に生を探したファーブルの挑戦」より)

 

ファーブルの感覚には頷けるものの、現象の記述から一歩踏み込むとしたら、機能の明晰な理解が必要になる。「いのち」「ヴァイタル」「こころ」「精神」「魂」といった官能的な表現は、まず第一歩として大事だし、こういった感性がなければただの物質構造科学でしかなくなる。しかし一方で、官能的・大和言葉的な感覚に依拠してしまっては、主観的な形而上学の世界、あるいはちょっと知的なロマン主義から抜け出すことができない。問うべきは、「いのち」「ヴァイタル」「こころ」「精神」「魂」を観察者に感じさせるような、実体的な機能とは何だろうか、そしてその構造は何だろうというところだろう。機能には階層性があり、生き物における普遍性を追求していくと、最終的には適応の問題になる。構造から実現された機能が、適応・非適応を通してフィルターされていく過程が、進化というアルゴリズムだ。

 

「精神活動」と言われるものが難しいのは、この適応性・機能性が、ぱっとした見た目ではっきりせず、「精神」「こころ」という官能的な言葉に頼ってしまうところにある。ここを工学的な機能的理解(と進化というアルゴリズム)で理解する必要がある。すなわち、構造と機能を明確に定義できる形で対応させること。構造に関しては、核酸から分子、神経細胞と解析技術は年々進歩している。機能に関してはどうだろうか。おそらくどこかで、構造と対応のつく反応や行動という単位に落とし込む必要がある。

 

精神 (psycho) と神経 (neuro) の間で - ideomics

再生産:ニューロウェアのエンジニアリング - ideomics

の捕捉として。

 

*1:そうでないものもあるけど

*2:実際にはもっと複雑で、十分な理解に達しているわけではないらしい

*3:理(ことわり)学と工(たくみ)学とも言えるか

*4:『〈生命〉とは何だろうか――表現する生物学、思考する芸術』岩崎 秀雄 - ideomics