ideomics

サブジェクト⇔オブジェクト思考ブロギング

再生産と適応戦略

 

子供の相手を週末2日連続でやるとまさにexhaustedだけど、どうも普段と違うOSを、仮想マシンで更に立ち上げているみたいな感じがある。良くも悪くも脳の違う回路(慣れない回路)が効率悪く頻用されてるのか。自分の回路活性化経路見てみたい。子育てが芯から楽しくなるような物事を捉え方をしたいところだ。

 

しかし、なんだかんだいって父・母で子育て適性の差が、生き物としてそれなりにあるのは否めない気も。他の一般的な「哺乳」*1類の話を読むにつけ。事実は当為を直接与えないけれど、事実を無視した当為も厳しい。規範形成・文化形成していくにしても、生物学的な基盤を知りつつ形成していった方が良い。彼を知り己を知れば百戦危うからず、というし。古典的なジェンダー対セックスの論理だと、「生物学的性差=変えようのないもの」として忌避しがちなんだろうけど、実際には生物学的な違いだからと言って変えられないわけではない。医療が代表的。

 

「ゴリラ、チンパンジー、オランウータン、人間は遺伝子によってほとんど変わらない」 :山極寿一 『「サル化」する人間社会』vol.1 | ラジおこし
京大総長・山極先生のインタビュー。ゴリラ社会の観察から、子育ての意義や位置づけなんかを説明していて大変面白い。自然環境で深く観察するタイプの生物学の力を見せつける。

 

父子関係って、母子関係ほど確実な血縁関係とは限らないから、遺伝子レベルの生存戦略としては、父が子供にそれほど労力を割かないのはある意味、進化的な合理性があるとも言える。今でこそ、ほとんどの男性は自分の子供とされてる個体が、本当に血縁関係にあることを疑うことは少ないけど(たまに例外がある)、ちょっと前まではもっと「自由」だったかもしれんし。

 

そう考えると、宗教的な性倫理(モノガミーの促進、不貞の取り締まりなど)は、血縁関係への疑いを減らすことで、父から子への労力を引き出すインフラを整備してると言えるのかもしれない。これによって教育にかけるコストのポテンシャルも大きくなり、子供一個体レベルの能力が上がり、文化的な蓄積が増える(ことが少なくとも理論的にありえるし、実際にも、おそらくそれに近い歴史の流れ)。倫理というと個人レベルでは規範としてうざったい感じだけど、集団レベルでは戦略の一種で、むしろ逆に、集団レベルの戦略を倫理と呼んでいるとすると、倫理って結構スポーティな概念なのかもしれない。

 

有性生殖動物の自然選択には、生存での選択と、再生産での選択(性淘汰と子育て)がある。オス・メスの行動・特性の違いというのは、前者を重要視する(結果としての)適応戦略か、後者を重要視する(結果としての)適応戦略か、という形で一元的に(スペクトラム的に)理解できるような気もしてくる。子どもが産まれて、コミュニケ-ションのためのコミュニケ-ションとか、身体性、装飾性といった概念の適応的な意味がそれなりに理解できた。ヒトの種レベルの適応戦略としては、再生産にコストかけることで、一個体レベルでの適応度を上げ、子孫が残っていく方向に進化してきたし、有史以後のトレンドもそう(ここは規範の話ではなく、結果としての適応戦略としての話)だが、今後はどうなるのだろう。


山極先生の対談で、「共同体は子育てから生まれた」というくだりがあって、妥当性は不明ながらも、とても面白かった。圧倒的な弱者である乳幼児を防衛しつつ、それが結果としての質の高い再生産に結びついたり、二次的に大人同士の社交性を促し、脳の発達にも繋がったりしたら、個体レベルの進化とともに、集団としての進化、そしての脳という器官レベルでの進化的/発生的変化を説明する視座として、惹かれる仮説だ。とりあえず必要に迫られてやったことが、意図せぬ効用を色々生んだ、と。非常に進化論的。社会脳の始原としての再生産戦略。仮説レベルだろうけど。このあたりを深く知りたい。

 

「可愛い」という感情が、乳幼児と親個体の共進化的な流れで発達したとすると、対象は何であれ「可愛い」と思う頻度は、養育行動のpredictorになっているのだろうか。「ネオテニー・ジャパン 高橋龍太郎コレクション」とか「きゃりーぱみゅぱみゅ」とか、日本の文化特性のひとつとして、「子どもっぽさ」が要素として上げられるけど、これは子育てに適応的な文化でもありえるだろうか。。。「可愛い」概念も、趣味レベルでなく、社会レベルで適応的な概念なのかも。*2

 

日本全体の教育レベルが高いとされる一方で、大学自体の教育力はあまり話題にならないし、中等教育もそこまで、となると、実は乳幼児~小学校の部分が効いてるのかもしれない。ざっくりし過ぎてて、問いにもなってないけれど。実感レベルでは、保育園の保育士さん達には感謝とともに感嘆しているが。仕事と家庭の両立で、家庭に時間を割くという場合、日本だと乳幼児ほど一緒にいてあげるべきという規範だが、欧米だと思春期ほど一緒にいてあげるべきという考え方も結構多いと聞く(裏は取ってない)。文化的なレベルでも再生産への適応性の議論は成り立ちそうだ。

 

ある社会における経済活動や政治体制が、構成員の人数と教育レベルに依存する部分が大きいとすると、経済活動や政治体制を考える上で教育に関する洞察は重要になる。移民を前提にしない場合、その社会で再生産したヒトを教育していくことになる。いわば、経済economyの下部構造としてのヒトの生態系・生態学 (human ecosystem/ecology)がある。再生産を「社会的に」考えるだけでなく、生態系・生態学として捉える視点もおそらく有用なはず。

 

*1:乳で養育する

*2:"kawaii"(かわいい)がOxfordの辞書に載っている:http://yuruenglish.blogspot.jp/2011/12/kawaiioxford.html