ideomics

オブジェクト思考ブロギング

コミュニケーションのスペクトラム

 

「コミュニケーション障害」という言い方があるが、これは得意とするコミュニケーションがスペクトラムのどの位置にあるか、という言い方もできる。数学、プラグラム言語、論文、散文、話し言葉、表情、身体接触といったスペクトラム・・・言い換えると、デジタル/ロジカル(論理・論理値的)、インフォメーショナル(情報的)、ソーシャル(外交的)、コミューナル(共同体的)、フィジカル(身体的)なコミュニケーション・・・のどこを得意とするか。

 

いわゆる「空気を読む」といったコミューナル/フィジカルなコミュニケーションの障害が問題化しやすいのは事実だが、「障害を治す」というのではなく、不適応なところから適応できるところにスライドすることで、全体としては適応的な方向を目指す、というのもひとつの考え方だ。マシンとのコミュニケーション(デジタル/ロジカル)も、コミュニケーションのひとつと考えると*1、むしろ「コミュニケーションが得意」という文脈もあるだろう。

 

問題なのは、いわゆる「コミュ障」という特性より、環境との齟齬で生じる攻撃性やトラブル、抑うつ、自己効力感の不足で、これは「根治」を目指すより、環境と特性のチューニングで適応的となる文脈を作ることがベターなことも多そうだ。もちろん、コミューナル/フィジカルなコミュニケーションをある程度は訓練した方が良いことは多い。

 

会話では、表情・仕草>抑揚などの音声>文字的な意味の順で、実際の情報的影響があると言われるが、人によって大きく異なる。俗に言うところのアスペ的な傾向とは、文字的な意味が、表情などのフィジカルな情報に対し優位になる傾向のことでもある(いわゆる字義通りの解釈)。これは、ウェブ上の書字的なコミュニケーションが、リアルなコミュニケーションと等価に捉えやすいという傾向も二次的に生み出すかもしれない。(元々表情とか抑揚を捨象して考えるほど、書字=話し言葉となる)

 

一般論としても、ツイッターなんか特にそうだけど、赤の他人でソーシャルなコミュニケーションであるべきところが、コミューナル・フィジカルなコミュニケーションと錯覚してしまうところが、ウェブの構造的な難しさというところはありそうだ。マクルーハンの言う「村」というのも、そういう意味かもしれない。赤の他人でソーシャルであるはずの関係が、あたかも近くにいる親しい人のように感じてしまう。いわゆる炎上やクソリプと呼ばれるもの。全然関係ない人まで、隣人に感じてしまう。仮にウェブリテラシーというものを考えるとしたら、共同体的ではない社交性sociality(他人は他人)というマインドセットか。それだけの「臨場感」を持てるというのは凄いのだけど。

 

いずれにせよ、「コミュニケーション障害」というラベリングがもたらす効用(だいたいマイナスなことが多い)を考えると、このラベリングを使っていくよりは、コミュニケーションのスペクトラムにおいてどのあたりが得意(適応的)なのか、あるいは苦手(非適応的)なのかを考えて、適応的なところから拡大していく路線が妥当なこともありそうだ。