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オブジェクト思考ブロギング

『プロジェクト・ジャパン - メタボリズムは語る』 レム コールハース (著), ハンス ウルリッヒ オブリスト (著)

台場からのメトロポリス・トーキョー - ideomics


フジテレビ本社ビルや台場のメガ・ストラクチャー的な構造物を見た流れから、改めてレム・コールハース、ハンス・ウルリッヒ・オブリストの『プロジェクト・ジャパン - メタボリズムは語る』をパラパラと。フジテレビ本社ビルには、「レム・コールハースが建設中のFCGビルについて、磯崎新に「あそこに君の都庁が建っているじゃないか。コンペには負けたんじゃなかったのかい?」と勘違いともジョークとも捉えられるコメントを残している。」という逸話があるらしい*1



2020年の東京オリンピック開催と重ねるように、1964年を想像的に「思い出そう」として、この資料をひもとく。都市計画を本気で追い求めていた人がいて、色々な計画や建築構想が少なくとも机上の上でたくさん出されていた。今から見ても「おぉー!」というプランはほとんどないが、今現在の東京のgenesisとして継承したら良さそうなものもありそうだ。直線上に文明が進歩していくという時間の捉え方と、季節の行事をポイントにして円環上にぐるぐると回るような時間の捉え方が対比されたりもするけど、いわばその2つを合わせた「螺旋状」の時間。60年という人の一生分くらいの時間のサイクルで。


提案されているプランをそのまま継承できるわけではないけど、メトロポリス的なスケールの構造物は今後どう構想されうるかというのは面白い課題。1960年代の計画はメトロポリス的スケールを、主に建築というヒトの使うもの、さらに言うとヒトが収まる内部空間を持つものに対して適用しようとしてきたが、どうしても人が使うものにはヒューマン・スケール(ものさし/目盛り)が必要になる。これはメトロポリス的なスケールの構造物の構想にとっては、ジレンマというかアポリアといって良い話かもしれない。端的に言って、遠くからの見た目は良いが、内部の使い勝手や美観が悪くなりがち。もちろん両立はありえるのだろうけど。



首都高中央環状 DAY IN THE LIFE [ 夜景壁紙.com ]より)


そもそもメトロポリス・スケールは求めるものではなく、ヒューマン・スケールで行くべきという意見もありそうだが、もしメトロポリス的なスケールを求めるなら、ヒトが内部空間として収まる建築ではないもの、土木的と呼ばれるものがターゲットになりうるのかも。道路、駐車場はまさに自動車のスケールで作られているし、あるいは工場や鉄道関係。水道、電線といったインフラもか。機械による機械の機械のためのメトロポリス・スケール。なかなか想像力が及ばないが、こういったターゲットに対してメタボリズムなどが持っていたメトロポリス的スケールの想像力が適用できるものだろうか。と気になる。



個人的に一番面白く感じたのは、この資料が使用している「プロジェクト」という言葉。色々な人にインタビューしているが、メタボリズムの中心となる建築家だけでなく、雑紙の編集者や、国家官僚として役割を果たした人も同様にスポットライトを当てているところ。ひとつの職能だけで構成された運動を平面的とすると、(一般にプレイヤーとして見なされない)メディアや政策に属する人が「プレイヤー」として特定のコンセプトにコミットすると、どれだけ運動が立体的になるか。まさにプロジェクト。この「プロジェクト」の捉え方は、他の分野でも適用可能そう。


1960年代を中心としたメタボリズムと呼ばれる運動を、当時の日本の興隆と重ねるように「プロジェクト・ジャパン」と名付けているが、確かに良くも悪くも今の日本へと繋がる運動であったと感じさせるものがある。逆輸入的に悪く言えば、「土建国家日本」と訳されそうだが。


そういえば、田中角栄氏は、日経新聞私の履歴書」において「一級建築士 田中角栄」という称号を用いたらしい。普通に考えれば、内閣総理大臣衆議院議員となるだろうが、あえて一級建築士と書いたところは、政治的なレトリックとして考えても面白い。この本によると、田中角栄氏は、「土地問題、自然環境問題、中国問題が片付かない限り、列島改造を進めることはしない」と言って、総理大臣着任当時は(自身の著作である)列島改造論は促進してはいけないという意見だったらしい(P649より)。彼がどういう構想だったのかは気になる。『プロジェクト・ジャパン - メタボリズムは語る』をさらに拡げていくとしたら、スピンアウトはさしずめ『一級建築士 田中角栄』ということになるだろうか。


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他には、栄久庵憲司*2のインタビューが面白かった。

住宅から都市へ − メタボリズム・ファーニチャー
1964 GK(デザイングループ)が政策した一連の作品は、実際にどんなスケールでも機能し、ものと建築と都市の間に流動性が生まれることにこだわっていた。(P492)

栄久庵:そうねぇ、その頃こういうことを言ってるんです。「モノの世界の民主化」、「モノの民主化」。量産品で誰もがもてるということですね。それから「美の民主化」。金持ちだけが美をもつんじゃなくて誰もが美をもてる。インダストリアルデザインはまさにそれだと。(P501)

コールハースフィリップ・スタルクの問題というのは、市場経済があらゆるものを支配する時代に活動していることの問題だと思うんです。建築もここ10年、至上の支配下で真剣さをかなり失いましたが、インダストリアル・デザインにも同じことが言えるでしょうか?
栄久庵:それは賛成。せっかく人々が自由な試みをかつてないほど求めているのに、それに応えられないのは残念です。・・・不必要なものをつけるといった、コマーシャリズムが生む過飾性などの問題もあります。(P503)


産業といういかにも市場経済の中にある活動としてインダストリアルデザインを捉えていたけど、こういう発想が昔からあったとは知らなかった。メイカーズ・ムーブメントはパラダイムシフトというより、正統な進歩ということかもしれない。そして、モノ−建築−都市というスケールを跨がった構造物を探求する試みがあったとはこれまた面白い。それを(ストリート)ファーニチャーという。思えば、屋外の現代的な彫刻の優れたものは、スケールの差し渡し的な機能という要件があるのかもしれない。

*1:FCGビル - Wikipedia。背景は『磯崎新の「都庁」―戦後日本最大のコンペ』

*2:榮久庵憲司 - Wikipedia