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オブジェクト思考ブロギング

女の問題としての子育て論を脱するひとつの方向性? Human Development Studies

『女性は仕事と家庭を両立できない』? - ideomics

子育てと仕事の両立。


延々と繰り返されるテーマだけど、これを"フェミニズム"として女性の問題として処理しようとするのはあまり得策ではないような感触が強くなってきた。もっと一般化して、男含め子育てとか実際に問題になりがちな「活動」をどうするか、と。


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男はなぜ子育てをしないのか/する気がおきにくいのか?*1


社会的評価が乏しいから、というのはかなり大きそうだ。生き物として向いてない、などの可能性は否定できないかもだけど、変えにくい部分から論じてもしょうがない。社会貢献といった諸々の概念があるけれど、やはりマスとして仕事の人気を集めるのは、その職業の社会的ステータスだろうし。「高尚な」職業のヒトがその仕事に就いた理由を色々言うとしても、ベースに社会的ステータスが高さがあるのは前提にしてもよさそうだ*2


仕事自体の流動性が低いと、キャリアという概念を語ってもしょうがないかもしれないが、それに付随して、子育てがキャリアとして捉えられないというのもそれなりにありそう。仕事か家庭かという選択も、子育て≠キャリアという社会的前提がある程度あるだろうし。仮に子育てが違和感なくキャリアとして捉えられるとしたら、そもそも子育てによるキャリアの空白という概念は成り立たない。


とすると、ひとつの方向性としては、子育てが、
(1)キャリアとして捉えられるようになること*3
(2)社会的ステータスの高い仕事になること
という要件を満たすような形を考えることになるかもしれない。


例えば、子育てのプロセスを"学術様化"すること。学術機関で働くことや研究することは、(1)と(2)をそれなりに満たしていると思うが、個々の子育てのプロセスを学術機関を絡める方向へと「整形」していくことができれば、想像の上では(1)と(2)を満たしうる。子育てという実践に、研究的作業とMBA的なキャリア的学習を付加していくようなイメージ。


studyとは、学ぶという意味もあるし、研究するという意味もある。まとめると、研究しながら学ぶ。臨床研究は、臨床と研究がバラバラではなく、臨床行為をより高い解像度で行うことで達成されるとすれば、子育てや教育にも同様のアナロジーが成り立ちうる。


本人が、キャリアとして捉えられるレベルで子育てや教育に関する知見を習得するとともに、研究活動的なアウトプットを出すことで、教育や子育ての世界にエビデンスや理論その他知見を提供していく。特に後者の部分はアカデミアのコアなので、ここができれば(2)の社会的ステータスの部分はあながち見当違いでもなくなる。


キャリア的な文脈で、MBA(Master of Business Administration)ならぬMaster of Human Development (MHD)といった呼称を考えても良いかもしれない。どの組織においても人の成長や教育に関わらないことはないので、Human Developmentという観点がどの分野においても評価されうると長い目で考えたとして*4。子育ての知識として限定してしまうと、それをキャリアとして一般化して捉えるのは難しいが、Human Developmentと広く捉えることできれば、キャリア的な解釈は可能かもしれない(後述)。


studyのアウトプットをうまく組織化して、学術的なレベルに持って行くことができれば、社会的な意義も相当大きそうだ。政治的な決定が、実証的なデータ(いわゆるエビデンス)に基づいた知見というよりは、よく言って信念、悪く言うと神話的な思い込みに基づいてなされることもままあると思われるが、実証的なデータ(いわゆるエビデンス)を社会に提供し、事実関係に関してはある程度コンセンサスを形成しつつ、その上での多様な価値観を前提にした政策論議を促していく必要は大きいだろう。


東京大学神経科学部附属保育園:教育学は自然科学か? - ideomics

教育という言葉がふさわしくなければ、暫定的にdevelopmental scienceとでも呼んでおいた方が良いかも。このプロセスが「キャリア」として一般性を持ちうるには、狭義の教育学(pedagogy)の専門家になろうという教職訓練的な意味ではなく、ヒトの発達や成長に関して一般性のある知識や方法論を持とうということなるだろうし。↑では、便宜的に自然科学であるといってしまっているが*5、狭義の自然科学に収まる必要は全然ないし、むしろそこからどれだけ拡張できるかが勝負になりそう(後述)。

20世紀後半から勃興し、21世紀に花開いたneuroscieceという分野を継承しつつ、より広範な理解としての"developmental science"が勃興していくに違いない。なぜなら、人間の発達と教育は人類の普遍的な関心事なのだから。

『最新脳科学で読み解く 0歳からの子育て』 サンドラ アーモット・サム ワン(著) - ideomicsより)

と仮定すれば、学術的なウケという意味でもサポートされるかもしれない。


パートタイムNPOという概念を唱えていらっしゃる方がいるが*6、これを援用して、パートタイム・スタディ(研究)という概念もありえそうだ。本業とは別に時間をある程度確保して、その時間を研究に当てる。実際、大学病院に所属している医者の研究は(良くも悪くも)このパートタイム型が多い。不可能ではないという以前に、既に空気のようにあたり前に成り立っている。


科学として基礎的なレベルで貢献できる人材がいると尚良いが、これは広く一般的には成り立たないだろう。ただ、少なくない数のPhD保持者の行き先として、まったくありえない道筋ではない。特に、大学附属保育園によって研究を成立させるとすると、大学保育園を提供することで、子育て世代のレベルの高い人材の雇用へ繋がる可能性も十分にある*7


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単にキャリアやステータスとして個人個人の役に立つというだけでなく、今のアカデミズムが持っている弱点を発展的に克服した学智の形となると、学智のあり方の更新という意味でなお良さそう。


(1)現状における分野横断の形、というか分野という分け方を固定化しない方向性
分野横断の知識流通@アカデミア - ideomics
慶應SFCというシステム - ideomics
のような感じで、分野を固定化しないmultidisciplineな方向性を示せると現状の日本の大学(特に自然科学系)に対する刺激のひとつにはなりえるかも。というか、そもそも理系と文系という境界はなくした方が良いと思っているけど*8。とはいえ、これは時間ととも硬直化するものなので、なかなか難しい。


(2)ソーシャル・キャピタル蓄積機関
(お金を稼ぐという意味での)いわゆる仕事とは違ったソーシャルネットワークの形成としても機能しうる。ソーシャルネットワークという意味では、「母校」はとても大きな役割を果たしていると思うけど、過去に在籍した学校だけではなく、新たな学校としてソーシャルネットワークの形成機会を提供できそう。これはMBAの存在意義ともオーバーラップしそうだ。

SCSM - Social Capital Stock Market - ideomics

フェイスブックが、ハーバード大学の名簿的な位置からスタートしたというのは、ソーシャル・キャピタルに関する教育機関・学術機関の役割という意味でも示唆的かもしれない*9ソーシャル・キャピタル蓄積装置としての教育機関・学術機関。もっと踏み込んで言うと、「唯一の」と言ってよいくらいに断トツのソーシャル・キャピタル蓄積装置を目指すこと。後述のように大学が、国家や市場/企業と伍していくには、今より大幅に強力になる必要があるが、OBネットワークの実体化が必要だ。


(3)被験者や研究対象がヒトであるヒトに関わる諸学問の研究雛形ともなりえる
臨床研究の学術雑誌 - ideomics
臨床研究だと、被験者がヒトとなる分、Nを集めるのに大変苦労する。これの解決のひとつの雛形として、上記エントリのような実験者と被験者の一体的な運用の形がありえるが、この方向性をもっと一般化できるかもしれない。


(4)パートタイム研究や遠隔研究のモデル
MBAが教育機関の実験的な施設となったように*10、「研究施設」としての実験的なあり方も探求できるかもしれない。遠隔教育はカーン・アカデミー始め色々あるみたいだけど、研究活動を遠隔チームでやっていくモデルはそこまで確立してなさそう(適当)。ソーシャルネットワークの課題でもあるが、地理的に離れた人の帰属意識をまとめるというテーマにもなるかもしれない。


(5)Human developmentの研究:教育機関としての大学の継続的アップデートシステム(パッケージ)としてビルトイン
世の中で最も教育メソッドが古びているのは、(教育機関として最も権威ある)大学。と揶揄されることもあり、かなり正しい指摘なことも多い。が、これはまずいわけで、Human developmentの研究を通して、「教育機関」としての大学自体が継続的にアップデートしていくことは必要そう。もちろん他機関への提供は言うまでもなく。



番外編:国家/市場/学術の"三権分立(三空間分立)"の一翼として大学(あるいは知識空間)
大学の意義 ver 0.1 - ideomics
自由空間の座標系 - ideomics
「第4世代の大学」論 - ideomics
人間世界全体の「自由空間」をより複層に多重に多元的にしていくものとして、政教分離権力分立といった概念を捉える。政教分離の"教"として、物理的な統治を担う政府に対して、情報や思想の統治を担う大学。あるいは、市場や国家と同じレベルで、あるいはカウンターバランスとして「自由空間」を構成する座標系として機能する大学。と想像したとすると、現状の大学は相当に力不足。ソーシャルネットワークを担う機関として突き抜けることや、教育という行為全般に対する知識を蓄積することで、他の権力機関や権力空間(自由空間)に悟していくレベルに近づけるのかもしれない。

*1:もちろん自分含む

*2:そいや、いかにも男性な仕事のイメージのプログラマーも昔女性が多かった。社会的ステータスが低かったから。という文章をどこかで読んで、なかなか興味深かった。経済的な報酬ももちろん大きいが、(少なくとも日本だと)一定ラインを超えると、金銭より社会的ステータスを求めがちな印象がある。というか、金銭も一定ライン以上は社会的ステータスのひとつのコンポーネントとして捉えても良いかもしれない。

*3:エビデンス・ベースト・フェミニズム? - ideomicsも前半参照

*4:かなり希望的観測だが。Built to Last:エデュケーショナル・カンパニー - 時代を超える生存の原則? - ideomics宅地建物取引主任者:資格と仕事のモジュール化 - ideomicsも参照

*5:反省

*6:「パートタイム社会貢献」という働き方 | 新世代リーダー50人 | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト参照

*7:社内保育園によるcompetitive advantage? - ideomicsも参照

*8:批評・政策における科学・技術 - ideomics参照

*9:socialism, sociomics - ideomicsも参照

*10:MBA = liberal arts ? - ideomicsも参照