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ideomics

サブジェクト⇔オブジェクト思考ブロギング

『女性は仕事と家庭を両立できない』?

今更ながらクーリエで、昨年話題になったアン・マリー・スローター氏の記事『女性は仕事と家庭を両立できない』を読んだ。



クーリエのブログ→女がキャリアも家庭も…なんてやっぱり無理でした! « クーリエ・ジャポンの現場から(編集部ブログ)


原文はこちら(長い・・・)→Why Women Still Can’t Have It All - Anne-Marie Slaughter - The Atlantic


話の本題に思うところは色々あるけれど、それは取りあえず置いておいて、特に面白いと思ったのが、

私は大学の講義で女子学生たちに、もっと発言をしなさいと発破をかけている。・・・これに関しては私の夫も同意見だが、夫は大学の講義で男子学生に、もう少し女子学生を見習うべきだと言っているらしい。もっと他人の話に耳を傾けろ、ということだ。男女が対等に社会のリーダーとなるには、男性を標準とする考えかたから離れなければならない。*1

という部分。というのも、自分自身も、より人の話を「聞く」ことに意識を向けるべきだと思う/反省することが度々あるから。


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でも触れたように、「聞く」というスタンスって前提にされているように見えて、実はあまり達成できているように思えないこともある。英語のリスニング・トレーニングはあるけれど、日本語の"リスニング・トレーニング"はあまり一般的ではない。プレゼンとかアウトプットの練習はあるけど、聞くことについてはどうだろうか。


一般には、弁が立つタイプの知性が評価されやすいが、「聞くタイプの知性」ってのは、どうだろう。人生の成功を目指すプライベートな教育が、より成功に結びつきやすいプレゼンなどのトレーニングに集中するのは当然としても、いわゆる公教育・・・善き市民を育てる教育・・・では、何を価値の軸に据えるべきだろうか。プライベートな成功より、より公共的な意義のある知性であるべきかもしれない(実際には、プロフェッショナルな仕事の多くは、聞く知性も結構大事で、active listeningといった概念もあるらしい)。


IQが非常に高く発言や思考のレベルは凄く高いのに、人の話を聞いたり受け止めたりが苦手で、それで損して勿体ないというケースをたまに論壇で見ることがあるけれど、そういった背景もあるかもしれない。あるいは、昨今の「批評家」批判もそれに近いかも。つまり、「批評家=一方的に語るけれど他の人の話を聞かない人」、という意味での批判。本来は、批評って必要な行為だと思うけれど*2。一般論としても、知的レベルや社会的地位が高くなるほど、そういう傾向は出てきやすい。


ASD(自閉症スペクトラム障害)で、ざっくりと「コミュニケーションの障害」と言うけれど、より細かく見ていくと、高機能のケースでは、聞くことの不足というのが少なくないように思える(いわゆるストレートな自閉症は置いておいて)。逆に言うと、知性のベクトルとして聞くタイプの知性を意図的に伸ばせれば、何か変わっていくドライバーになるかもしれない*3

我々の口は一つ、耳は二つ


    ***


記事でも触れられているように、あるいはフェミニズムの世界でもよく言われているように、そもそも女性が男性の世界に飛び込んでいくのが、フェミニズムの仕上がりのイメージなんだろうか。例えば、シェリル・サンドバーグのように。マッチョに。それとも、そもそもの現在の社会の価値観・・・言うなれば、仕事>家庭、とか仕事>子育て、といった価値観・・・を=にしていく、あるいは、転倒していくことなんだろうか。つまり、男性をより女性化*4していくこと。知性のあり方にしても、「キャリア」の積み方にしても。もちろん短中期の現実的な課題について無視しろという意味ではなく、より中長期的な理念的・概念的な話として。といいつつ、現実的な話としても、実は後者の戦略の方が"勝算"が高い可能性もある。


企業社会における女性のフェアな処遇というのも、当然大事なのだけど、個人的には、むしろこれまで女性が担ってきた/担わされてきた「仕事」の再評価や、社会サイド(=まあ、つまり男性が多い)の価値観の変更の方がクリティカルかもと思うことがある。子育てや教育という部分もそうだし、知性の種類や方向性についても。


政治家や起業家が社会的な意義や、未来へのビジョンを語るけれど、そもそも未来に人がいなければ、何を語っても無意味になる。そういう意味では、再生産は、全ての長期的な人間活動の前提であり、インフラ中のインフラ。何も考えず空気のように前提としてしまっても良いのだろうか。それは自然に勝手に成り立つものだろうか。ナザレのイエス氏とその流れをくむ人たちが、500年くらいかけて起こした価値の転倒に近いものが必要なのかもしれない。と思ったり思わなかったり。


このあたりは、社会のために云々という公共倫理的な意味だけでなく、別途、より利己的な文脈でも思うところがある。というのも、大家族政策:家政学と経営学で触れたように、個人の発展という意味でも、個人主義で点として戦うだけでは家族レベルで面で戦っている人たちに勝てないんじゃなかろうかという思いもあるから。やはり結婚というのは、恋愛面だけでなく、家のつながり、いわば一種の家同士のM&Aの側面が思っっていたものより強いのかもなというように最近感じている。


ソーシャル・キャピタルソーシャル・ネットワークという概念があるけれど、やはり血縁のつながりは異質な強さがあるし、既得権益に近づくほど、血縁による「身固め」があるように感じていたりもする。というか、正確にはそうやって身固めした人たちが残っていくということなんだろうけど。人間はそうすぐに変わるわけでもないから、つい500-1000年前の藤原氏やハプスブルグの戦略の有効性が損なわれていると考える方がかえって不自然なようにも思える。そういう意味で、家のマネジメント(家政?)というのは、昔思っていたよりも、いわゆる"雇用者としての労働"には還元できない重要性も大きいのかなと感じている今日この頃でもある。

*1:原文では、"I continually push the young women in my classes to speak more. They must gain the confidence to value their own insights and questions, and to present them readily. My husband agrees, but he actually tries to get the young men in his classes to act more like the women, to speak less and listen more. If women are ever to achieve real equality as leaders, then we have to stop accepting male behavior and male choices as the default and the ideal. "

*2:こちらも参照

*3:重ね重ね、ノーエビデンス

*4:従来で言われているステレオタイプとしての