ideomics

オブジェクト思考ブロギング

ベビーと言葉と書き言葉と

ちょっと子どもが言葉を覚えてきて、こちらも色々な物の名前を教えたりするけど、一種の罪悪感がある。というのも、子どもがしげしげと葉を眺めて遊んでるのに、"葉"とか言って、言葉というバッファーをはさむのは何か邪魔してる気がするから。実際大人になって、物の認識が言葉メインになると、一瞬葉を見て「あぁ葉ね」って、ほとんど何も見なくなる。これって、病気の"診断"や、生物の現象の観察もそうだけど、フレームワークは時間を節約してくれる代わりに、やっぱりガラス板のように邪魔だ。観光に行って、写真とりまくってたら、実は肉眼では何も直接見てはなかった。みたいな。


なので、何も言わずしばらく葉を眺めたり噛んだりしてもらってる方が実は「教育的」なんじゃないか。でも、最終的には認識の解像度上げる作用もあるしな。と思ったり、思わなかったり、と逡巡。穏当な結論としては、両方を。ということになってしまうけど・・・

言葉の学習は,「対象を相対化できる喜び」と「対象が相対化される悲しみ」のミルフィーユからなる(by @FrisbyLife)

確かに、言語=対象の相対化・主客分離かも。逆に、それを(一時的・意識的に)滅すれば、対象との一体感に繋がるのか。振り返ると、そんな気もする。


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タモリにとって「言葉」とは何か | Matogrosso

もしかしたらね、小さい頃はいろんなものがそういうふうに見えてたんだと思うんです。・・・言葉が全ての存在の中に這い込んできて、それをダメにしている。・・・オレの中では言葉がものすごく邪魔している。

だからタモリは言葉を壊すしかないと考えるようになったという。言葉から逃げることはできない。それなら、言葉を面白くして「笑いものにして遊ぶ」しかない、と。

面白く読んだ。と同時にタモリさんの意図は理解できるもの、これで良いのか?とも。言葉が邪魔なので遊んだり壊したりというのはわかるけど、じゃあコミュニケーションは?と思ったり、別なコミュニケーションを模索した方が良いのではとも思ったので。


例えば、画や絵を描くこと。画や絵というと、芸術や美術の時間に分類されてしまいがちだけど、芸術とかいってあまり特別扱いせずに、絵や画による日常的なコミュニケーション・・・写真的な模写だけでなく、より抽象的なイメージや思考・思想的なもののコミュニケーション・・・があるとしたら、どういう形になるんだろうか。手書きの時代は、手書きの筆跡がある種のコミュニケーションになっていたのだろうけど、そういった感覚性の強いものとは別様に、より情報的・抽象的なコミュニケーションとして。


ウェブ空間では、絵文字というものがあって、絵〜象形文字表意文字の前駆的な形を示していたり、写真の共有というものがあるけど、より抽象的で、ダイレクトな画のコミュニケーションは可能だろうか。例えば、HTMLという書式はそれに近いかもしれない。あるいは、漢字の起源。いろいろと可能そうだ。他にはどうだろう。例えば、サイエンスのFigureやビジネスプレゼンの図解をより日常的なコミュニケーションにするイメージ。ウェブのファシリテートかなんかで。


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書き言葉は本当に書き言葉なのか。書として独立しているというより、むしろ話し言葉の視覚記号として、話し言葉に従属しているだけではないのか。反例としては、漢字の起源や数式やHTMLがあるけれど、そもそも言葉という文字には、"言speech"という概念が内在されていることも気になる。英語という文字=表音文字の言語が覇権を担っていると、ますますその面が強くなるような気がする*1。いや違うかな。


話し言葉とは独立した、つまり発音できない「書き言葉」でのコミュニケーションが日常的に、というのはありうるだろうか。ダイレクトな描画によるコミュニケーション。あるいは、数式や起源の漢字のように、話し言葉と独立した「書き言葉」は更に可能だろうか。そして、その先にウェブ経由ならではのウェブ言葉も更に発展していくのだろうか。結局、それでもタモリ氏のいうような「邪魔」さは永遠に消えなさそうだが。

*1:米国と中国の関係で、そもそも表意文字が文化的な覇権をとりうるかというのもひとつのトピックとしては面白い