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オブジェクト思考ブロギング

大学の意義 ver 0.1

大学の存在意義。学問の意義。しばしば問われるものだけど、一番速攻な答えとしては、生み出される知の有用性:例えば、〇〇病の解明・治療とか、ある状況で景気を良くする経済的理論や実践など。しかし、こういったいかにも実用的な「意義」だけでは何となくしっくりこないのも確かで、すぐ実用的なだけの意義では何となく浅薄な気もしてしまう。


といっても、知そのものに価値があるとか、すぐに有用ではない知を育むことが豊かさの証だ、みたいな意見にそのまま頷けるわけでもない。いわゆるpure scienceや文学・美学みたいな有用性が主張しにくい領域など特にだけど、それじゃあ単なる趣味の問題でしかないなら、Jポップみたく大仰な公共性のないものだよね、といった感覚も否定できない。


じゃあ何なのよと言うと、説得力は乏しいだろうが、今現在自分の中にあるひとつの暫定解としては、①知は人を自由にする、という点と、②大学を始めとした知の機関は、政"教"分離の一翼を担う権力分立構造のプレイヤーのひとつ、というところ。仮に政教分離自体、人間の自由を確保していく方法のひとつであるとしたら、②は最終的には①に包摂されるのかもしれない。


①知は人を自由にする

知は、人を自由にする。自分の縛っている通念や価値観、あるいは物理的な限界を認識して*1、そこから解放される契機を与えると言う意味での消極的自由においても、自己や外界をよく知ることで、自らの権能を増すという意味での積極的自由においても。


一方で、知の世界自体は、社会が自由を尊重する風土でないとうまく育たないので、自由と知は鶏と卵の関係とも言えそうだ。自由の、自由による、自由のための学知。あるいは、学知の、学知による、学知のための自由。広く言えば、これも一種の有用性か。そういや、schoolの語源のスコラscholeは、暇とか時間的ゆとりという意味らしい。


②"教"=教育機関としての政"教"分離

学校自治とコミュニタリアニズム - ideomics
でも触れたが、一部の大学が、キリスト教教会の「子ども」であるとするならば、政教分離の教の一翼を担うのは、大学(を始めとする教育機関)である。というのは、あながち間違いとも言えなさそうだ。国家が、物理的な力によって、物質的・物理的な面を担う存在であるならば、大学といった教育施設は、精神・思想といった内面を担う存在として、国家とある種対峙するような役割があっても良さそう*2


とはいえ、大学だけでは力不足なのも確か過ぎるくらい確かで、他の知の体系も必要かつ、正統な存在に違いない。『大学とは何か』 吉見俊哉 - ideomicsで触れた吉見俊哉先生が指摘するように、近代では書籍の流通が、最近であればWebにおける流通がある。具体的には、出版やジャーナリズム、最近であればIT関係のオープンソースコミュニティもかなり大きなものかも。


特に出版、ジャーナリズムに関しては、ここ数年で大きな変化が起こっているようだけど、↓のような意味合いにおいて、アウトサイダーながら、期待しているものも大きい。

ジャーナリズムとアカデミズム - ideomics

ジャーナリズムの銀河系 - ideomics

ハンナ・アレントにおける政治の意味 - ideomics


と大仰なことを書いたものの、今現在の日本の大学が、こういった意義を担っているかというと、なかなかポジティブな返答をできるとは言えない。東アジアの大学は、自由を担う機関というよりは、儒学の子どもとも思える部分が多多あり、いかにも儒教四書のひとつ『大学』から来た言葉なんじゃないかと思うくらいだ*3。実際、東大はじめ、生まれも国家からで、政教分離とは真反対とも言える*4


とはいえ、もし↑に述べた意義が、目指すべき方向だとしたら、ネガティブなことばかり言っていてもしょうがない。これは妥当な意見だろうか。だとしたら、どうしたら大学(といった知の機関)をこの方向で歴史の流れの上で推進させて行けるだろうか。

*1:人文学・生物学はじめ、ヒトに関わる学問は須く「汝自身を知れ」への部分解である。とも言えるかも。特に最近のゲノムサイエンスは、「汝自身を知れ」への21世紀からの応答とも。

*2:彼等について私が知っている2,3の事柄 - ideomicsも参照

*3:ざっと調べた感じでは、大学という翻訳言葉の由来とは別みたいだけど。訂正頂けると幸いです。

*4:その点、慶應義塾は生まれに関しては由緒正しいのかも