ideomics

オブジェクト思考ブロギング

人は土から離れて生きられないのよ

ラピュタがなぜ滅びたのか、私よくわかる。ゴンドアの谷の詩にあるもの。
「土に根を下ろし 風と共に生きよう 種と共に冬を越え 鳥と共に春を歌おう」
どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんのかわいそうなロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ。

天空の城ラピュタより)



昨年の忘年会で某建築家と話しをしたのですが、「エコロジーはトレンドというより前提、流行として乗るか乗らないかという話ではなく、住居作るなら、そりゃトイレは必須でしょ。というレベルで、もはや前提とすべき」という話がありました。私個人も、諸々の事情から、たまたま、コンクリートな都市部から、緑の豊かな地域に引っ越たのですが、これが予想しなかったレベルで良い。もちろん、なんとなく自然って良いよねというのは浅薄に思ってはいましたが、意識していないレベルで人間に相当必須なのかもなと改めて感じ入りました。もちろん個人的な体験です。


人類に至る進化の歴史を考えると、都市的な環境にヒトゲノム君が適応してきたとは考えにくいですし。コンクリートの四角いマンションとか、遺伝子的には「聞いてないよぉ!*1」って感じかもしれません。都市化のスピードが速すぎて、ゲノム君から「ごめん、早すぎて適応がついて行けない」ってクレームが来てそうです。すいません、適当です。


大きな物語が終わったと言う考え方もあるようですが*2エコロジー関係は、十分大きな物語になり得るんじゃないでしょうか。と思ってしまいます。世界的にも都市化が進む中、

都市と農業とメンタルヘルス - ideomics

のように、都市の弊害についても知見が蓄積されていくことでしょうし、その中で、都市的な便利さを残しつつ、その弊害をキャンセルするようなアイデア・テクノロジーも開発されていくと思うものでして。

モダニズムには合理性の範囲が足りない。


これは某建築家が述べた至言でありますが、私も同感です。動線とか空間利用効率とか、そういった機能的な合理性は追求できたかもしれないけど、それはあまりに機械的。一種の「機械」とはいえ、これまで環境と偶然に左右されながら「進化的に」形成されてきた一生物としてのヒトの感覚と構造を考慮するなら、どういった環境が、感情への影響も含めて「合理的」かは、おそらく再考しなければならないのでしょう。幸か不幸か、我々はアマゾン社の倉庫で働くロボット君とは違う構造なのですから。ヒトが何をどう受け止めるかは、何を快適と感じるかは、シンプルな機械とは違う。「進化的に環境に形成されてしまったもの」を考慮すること。モダニズムの否定というよりは、モダニズムが追求してきた「美」や「合理性」の拡張*3



(【動画】Amazonが650億円で導入する倉庫ロボットが凄すぎる | GGSOKU - ガジェット速報より)


しかし、これは自然を大切にしよう、という共生的なエコロジーとはちょっと違ってくる可能性もあって、やはり人間中心主義的な話。いかにヒトに快適な環境を作るか、という建築的な課題。ミクロなエコロジーで快適さを求めたら、もっとエネルギー消費は上がるかもしれないし、地球全体でのマクロなエコロジーとはちょっとずれることもあるかもしれない。という意味では、ジブリとは反する部分もありうる。場合によっては、自然をもてあそぶ、という意味にもなったりするかもしれない。自然をもてあそぶ・・・非常に非道徳な感じですね。自然に帰れ、というより、もっと自然を弄べ、みたいな。Hacking Nature。なんという侵犯感。これがアートの形に結晶したら、もしかしたらダミアン・ハースト的な何かになりますかね。いや、ならないか。流してください。


その忘年会で、盆栽ってホント気持ち悪いよね、という話になりました。あれって、自然へのSMな感じというか、非常に歪んだ愛で方ですよね。えらく変形させ歪曲させてますから。一種の支配欲、あるいは歪んだ性欲とも解釈できるかも。某氏の「盆栽って、男の人しかやらないよね。(※ガーデニング自体はむしろ女性が多いのに)」という指摘は非常に興味深いものでした。なんででしょうね。ちなみに、元東京都知事石原慎太郎氏は、某盆栽コンクールの優秀賞だったそうです。なんででしょうね。



(盆栽 - Wikipediaより)


リベスキンド氏のようなひねりの効いたロジックと形象を楽しむのも、きっとエキサイティングなことかと思いますが、何て言ったって、建築って(半)恒常的に生活するものですし。非日常として面白いものでも、日常としては疲れる、ないし飽きる。むしろ、シンプルに心地よいかどうかというプリミティブな感覚を素直に追いかける。あんまり賢いトピックな感じはしませんが、それは良いでしょう。別に賢さが建築の目的ではないのですから。生活空間ではないアイコニックな公共建築・商業建築にしても、メッセージとしてのエコロジーは大きな物語の象徴としてありうるかと思います。


エコロジーと漠然とした言葉を言っても、それが屋上緑化とか緑化なのか、木という材質を使うのか、庭をマネジメントする視点なのか、公園と作っていけば良いのか、スウェーデンのように森にセカンドハウスを作ればいいのか、人口密度の調節など街作りや都市計画まで進出しなければならないのか、建築という行為自体を否定する反建築的な行為なのかはわからない。キーワードだけあって、実際の「解答」が十分にはない。まさに、未完のコンセプト。ここは愚直にエコロジーの一点買いで、横綱相撲というのはどうでしょうか。

モダニズムっていうと、モダニズムっていう。
ポストモダンっていうと、ポストモダンっていう。
大きな物語は終わったっていうと、大きな物語は終わったっていう。
そうして、あとでさみしくなって、
エコロジーっていうと、エコロジーっていう。
こだまでしょうか。いいえ、誰でも。



(『もののけ姫』より)


そもそも、ecology=oikos(=家)+logy(=学問)と語源分解したら、エコロジー=家の学問。まさに建築そのものでんな。これからの建築学科は、工学部ではなく農学部所属になったりして。農学部建築学科。

*1:ダチョウ倶楽部 - Wikipedia参照

*2:一方で、"End of History Illusion"という概念もあるようです。http://www.sciencemag.org/content/339/6115/96参照

*3:そもそもサヴォア邸もロンシャンの礼拝堂も、周りの森がなければ、「建築的な」価値はどうなるだろうか。周囲の森に支えられている部分も大きい気もする。写真でしか見たことないけどw