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ideomics

サブジェクト⇔オブジェクト思考ブロギング

ゲーム行為とメタゲーム行為

サッカーにしろ麻雀・将棋にしろ、ちょっとずつルールは変わるけど、大枠は変わらないゲーム。基本的にはルール内で遊ぶ/戦うもの。それとは違って、時々ルールを変えるチャンスがあって、ルールを変更する行為(メタゲーム)自体も遊び/戦いの一部になるような"ゲーム"があるとしたら、つまり、ゲームとメタゲームを同じプレイヤーが行うことができるとして、それをスーパーゲーム/super-gameと名付けられるとしたら、スーパーゲームにあたるものってどういったものがあるだろうか。


ひとつはアート。パラダイムシフトをメタゲーム行為とすると、サイエンスなど学問全般もか。特に人為的なものに限定すると、アートくらい?語感はさておき、パラダイムシフト的なものを好む人は結局このあたりに落ち着くのかも。つまり、メタゲーム行為が許されていない環境は耐えられない。メタゲーム行為の許容幅によって、その人の好むゲームの種類はある程度変わってきそう。もちろん、最終的にはどんなものでもメタゲームは成り立つはずなので(理論的には全てに無限にだろう)、あくまでもある程度の話でしかないけど。


ゲームには、勝敗と戦利品がエッセンシャルだとして、戦利品も含めて内部で完結する(つまりお金などの外的なものでなく)のがよりゲームとして純粋なものとすると(つまり外的なものを目的とした手段ではなく、そのものが目的として成り立つこと)、プレイヤーからのリスペクトが最もよくある戦利品。とすると、メタゲームが成り立つのは全てでありうるとしても、ゲーム内で「戦利品」が得られる範囲で(ゲームとして成り立つ範囲で)、メタゲームが推奨・賞賛されるのは限られてくる。中でもメタゲーム性が重視されるものと、相対的にそうでないものがあるだろうけど。なので、全部のゲームがメタゲームも含みうるというのは、理論的にはありえても、現状に照らすと間違いか。


しかし、プレイヤーがメタゲーム行為にだけ熱中してしまって、ゲーム行為に参加しなくなると、メタ性が成り立たなくなり、逆説的にメタゲームでなくなってしまう。つまり、少なくともある横断面では、ゲーム内プレイヤーが一定割合いないとスーパーゲームは成り立たない。メタゲームプレイヤーばかりの状態が続くと、スーパーゲームは成り立たなくなる。