ピープルビジネス?社交ビジネス?感情労働?
耐久消費財は言うに及ばず、生鮮食料品もどんどんネット(スーパー)での買い物になっていく。今の生活が続くと、家電量販店だけでなく、スーパーですらもリアル店舗が危機的になりそうな。一方で、美容院といい、この前のフォトスタジオといい、ことあるごとに手書きの手紙を送ってくれる店。ちょっと遠くてもリピートしてしまう。ある意味、商業のソーシャル化ってこういうことだよなぁ。ソーシャルメディア、SNSが云々みたいな"ウェブ上"の話も、最終的には、この商業自体の"全体"のソーシャル化の前奏曲なのかもしれない。と思ったり。
ITによる効率化→雇用減みたいな話に対する一つの可能性は、ヒューマンタッチな感情労働をネガティブではない形でどう活かすか、どう雇用に結び付けていくかみたいな話だと思ったりもするのだけど、
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Taejunomics"これまで”が崩壊する時代
では、「ピープルビジネス」という表現をしている。
ピープルビジネスというのは一般従業員の人間性が競争優位の源泉となっている事業だ。マクドナルド、スターバックス、スシローなど、成功している外食産業の多くは、自らの事業をピープルビジネスと規定し、従業員教育にかなりのコストを割いている。
ピープルビジネスというのは、どの程度一般的に使われているのだろう。peopleだと左派色が強い感じがするので、social businessあたりの表現が妥当だろうか(逆にそれが良い気も)。とはいえ、これだとバズワードっぽすぎるし、英語はよくわからん。
スターバックスといい、カルディといい、幾たびにスタッフの皆さんのテンションに感銘を受ける。コーヒー自体はあんまり旨くないけど、ついつい店で過ごすために行ってしまう(財政的に週1回くらいだが)。やはり、スタッフのみなさんの「人間性」にお金を払っているだと思う。もちろん、この"「」"は色んな意味での"「」"。内容的には、socialityみたいな意味だけど。
カルディに行けば、ブータンまで行かなくても手軽にハッピーになれるわけだが、スタッフのこの「ハッピー感」には心配がないわけでもない。これはどの程度まで、「強制的な」ものなんだろうか、と。感情労働という言葉自体は、一般的にはネガティブな意味だから。ちなみに、ショスタコーヴィチの交響曲第5番は、「強制された歓喜」という含意があるとかないとか*1
終楽章は、“強制された歓喜”だ。「さあ、喜べ。それがおまえらの仕事だ」と鞭打たれると、人々はふらふらと立ち上がり、「さあ、喜ぶぞ。これが俺たちの仕事だ」と、鎖を巻きつけられた足を引きずって歩き始めるのだ。
もちろん、そうでない形だと思いたいし、否定ではなくむしろ雇用の雛形になりうるという期待を込めての意味で。
*1:労働という行為と「強制された歓喜」in ソ連。革命に取りつかれたある少年の物語:ショスタコーヴィチの交響曲第5番について参照だが、異論もあるようだ。