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未完の宗教革命

瀧本哲史さん(@ttakimoto)による「いじめ」が起こった後の対処 - Togetterまとめ

「いじめ」という言葉がよく使われるけど、瀧本さんのこの議論は同意で、better-definedな言葉で、行為自体をもっと直接的に表現・評価した方が良いと思う。法的な対処は細かいところはよくわからないけど、「学校は聖域」として、まったく介入を拒否するのは、やはり得心しにくい。


学校内での暴力や恐喝といった行為の処理で、教員の皆さんに期待しすぎるのは、さすがに重荷すぎるだろうし、そもそもそんな訓練を受けたポピュレーションではない。あくまでも、学科的な知識の伝達の訓練を受けたポピュレーション。教員が暴力行為の処理をやれっていうのは、精神科医に心臓手術やれっていうくらい距離がある気がする。そういう訓練とかしてないし。いくら担当だからって、冠動脈高度狭窄例を「自分だけで」なんとかしろって言われてもきついし。「専門家」*1にコンサルトしたいし。むしろ倫理的に、積極的に「するべき」だし。


しかし、「学校は聖域」「教師は聖職」みたいな考え方は、無意識のレベルなのかどうか、結構根強い。コンドルセさんたちの文章を読んでると、今の公教育のひな形ができたフランス革命後の教育論争では、いかに宗教から「教育の主権」を国家に回収していくかが、かなりの焦点だったようだ*2。というのも、それまでは教育とは「宗教の領域」であったから。まさに聖域。宗教革命というと、16世紀のルターやプロテスタント周辺の話がメインになるが、教育に限っていえば、「宗教革命」の始まりは1800年前後と言えるのかもしれない。


フランス革命期の公教育論』(コンドルセ他)


フランス革命を経て、国家による公教育が始まり、教育の主体が宗教から国家へと変わった。しかし、といいつつも、「聖性」はある程度保存されており、完全に世俗化されていないようだ。いわば未完の宗教革命。未完の世俗化。フランスという異国の話とはいえ、今は一見国家が担っているようだけど、実は宗教の残滓がかなり滞留してそうなプラットフォームを日本が近代に移植してきた。サンクチュアリとみなされるのも仕方ないのかもしれない。でも、そういう歴史的な残滓から、もっとフリーになっても良いとも思う。


医学も昔は宗教の領域、聖域であった歴史がある。けど、今は世俗化・科学化されてきている。世俗化・科学化=疑えること、反証できること。そして、その反証可能性、実証性によって、今の医学の進歩があるのだと思う。そのアナロジーが成り立つなら、教育の分野でも医学の歴史を反復することはできないものかしら。


東京大学神経科学部附属保育園:教育学は自然科学か? - ideomics


「複雑なので色々あるんだよ」というのは、どの分野でも当てはまる。人間社会がシンプルだとは、まったく思っていない。でも、クリアカットに明晰に理解しようとする努力自体を「積極的に」放棄するのはどうなんだろうか。「神聖さ」「秘教性」を担保したいという心の働きはどうなのだろうか。というのも、権威がある程度確立されたものにとっては、秘教性は居心地が良いから。秘教性=反証不能性。科学が反証可能性に基づくとしたら、それは権威にとって脅威である。もし反証不能な権威を築けたなら、そっちの方が権威にとっては居心地が良い。そういった心理的な機制はないだろうか。

*1:この場合は、循環器専門の医師。暴力行為の場合は、≒警察、弁護士、人権団体

*2:実際に教育の主体・主権がどうあるべきか、というのは、現在でも非常に重要な議論だと思う。彼等について私が知っている2,3の事柄 - ideomics