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ideomics

サブジェクト⇔オブジェクト思考ブロギング

human-centered design

メモ

IDEOの言うhuman-centered designというのがなんとなく腑に落ちたようなそうでないような。IDEOの本でよく「文化人類学のように」とよく言われているのも。


Human-Centered Design Toolkit | IDEO


機能中心/物中心と主観中心/人間中心。物を見てデザインするか、(使う)人を見てデザインするか。視線の焦点がどこにあるか。振り返ると、確かに物の開発は、「物を見ながら」行うことがほとんどだったような印象がある。MicrosoftSurfaceと、AppleiPadをその点から比較していた人がいたけど、確かにSurfaceのPVはプロダクトが中心で、まったく人が出てこない。iPadのPVが十分human-centeredとは言い難いだろうが、しかしliberal-artsとの交差というのを強調していた。


Surface by Microsoft - YouTube


human-centeredなんて今更。みたいな話があったが、そんなに簡単なことでもない気がするけど。人そのものに興味を持つって結構難しい気がする。特に男性は。人への興味が、「人文学」とかに行く人は多いけど(私じゃん・・・)。それもまた「プロダクト/物」に近い。間違っているとか拙いとかそういった評価は置いておいて、まず使う人が絶対基準として設計。逆にそこに違和感を覚える人もいるかと思われる。human-centeredが好かない人も*1


バウハウスは肯定的な文脈で語られることが多いけど、プロダクトの「作品」化を進めることで、プロダクトが「道具」であることを軽視されるような副作用を生んだ。みたいな部分があったりはしないか。大量生産ではなく手工業で、身近な人向けに道具や服を作っていた時代なら、意識する必要もなく、ある程度使い手中心human-centeredな作り方になったのだろうけど、大量生産によって、生産・設計と使用者の距離が広がるほど、作り手は使い手とdetachする。そうすると、準必然的に、作り手の意識は使い手から離れ、プロダクト自体に関心がフォーカスするようになる。プロダクトが「道具」であることから離れ、「作品」を目指すようになる。美的にも工学・技術的にも。


失敗すると、作り手の美意識の自慰行為になる。近年のSonyに感じる「美しさ」はそれに少し似ている。プロダクトそのもに意識が集中するあまり、使い手はどこかへ、といった美しさ。道具なのに・・・。建築学科の卒業作品もそういった違和感を結構感じた。建築界隈が特にバウハウス的な影響を受けているとすると、それはさもありなんかもしれない。言うまでもなく、もちろん成功例は成功例で多いと思う。が、もう少しバウハウスを批判的に捉える視点が多くてもいいんじゃないかと思ったり。道具をそのまま(「作品」としてではなく)道具として捉えるのは、学歴が高かったり、成功してきたタイプの人はかえって苦手かもしれない。一種のserveだし。


バウハウスの副作用を、IDEOが明確に方法論として解毒したならば、IDEOはやはり歴史に残るデザインムーブメントとして位置づけられるのかも。

*1:しつこいが、human-centeredが「正解」で、それ以外が「間違い」と言っているわけではない