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ideomics

サブジェクト⇔オブジェクト思考ブロギング

「茶 利休と今をつなぐ」 千宗屋

茶の湯を思想と作法(技術)の両面で解説してくれる。プラクティスのレベルとフィロソフィーのレベルの両層でわかりやすく、かつ(おそらく)的を得ている。ありそうでなかった、茶の湯の一般向け解説。良い意味で非常に新書らしい新書。



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以下抜き書き的に

茶の湯=パフォーミングアート、インスタレーションアート。既にあるものに別の価値を与えて提示するという「見立て」。デュシャンのレディメイド的、反芸術的な要素もある。

・能=文化レベルの低かった武士が古典を理解するための劇であり、古典をかみくだいたもの。公家など当時の文化人層に対抗して。茶の湯もインスタントに古典の教養人を養成する「古典教養養成ギプス」。また中国という先進国の文化を凝縮して見せる「文化の圧縮&解凍ソフト」でもあった。

茶の湯は昔の「身体感覚」「身体の所作」を伝える。古武術と並んで。

・お茶は当時のカルチャースポットや大学にあたる寺院で嗜まれていた。それが武士や公家にもクールで知的なものに見えた。ベースには中国への憧れがある。(今の海外ブランド志向にも通じるか)

・秀吉の光の茶室も侘びと解釈しうる。というのも、侘びとは身分や経済に応じたもので、大事なのはもてなすという意志だから。光の茶室とでも呼べば印象は変わる。現代アートとしても通じるレベルかも。

・中国への憧れをベースとした「道具のためのお茶」から、「お茶のための道具」へと発想を転換させたのが利休の功績。茶器=ハードウェア、茶の作法=ソフトウェアとして、ハードウェア優位から、ソフトウェア優位へ。それに伴いソフトウェアに準じたハードウェアとして国産品をつくった。(現在利休が人気ある理由のひとつは、これがナショナリスティックな感覚にヒットするからかも)

・茶事は時間の芸術。光の移ろいや花が萎れる様子を楽しむ。

・1つの茶碗を皆で廻し飲む。主客を混合し、一体感が醸成される。日ごろ個人を隔てている身体や言語が取り払われて、心と心が直につながる。全員が同期してわれわれという一体感。政治的に危険なまでに平等。ある意味原理主義的な平等性。

 
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利休人気の背景が何となく理解できるような気がした。そのひとつは、先進国の文化をベースに、自国の文化を産み出していく力が強くまた魅力的だからだろう。当時であれば、先進国=中国であり、現代であれば、先進国=欧米。現代でいうと、ある程度欧米にキャッチアップした部分もあるので、そろそろ自国も「先進国」に匹敵するような「文化」を生み出したいところ。利休が、中国の道具に匹敵するような思想・技術・道具を産み出したように。そのアナロジーで言うなら、現代だと何が考えられるかな?自動車?家電?産業機械?・・・考えてみたい。


この著者は現代アートと言われるジャンルも詳しいらしい。「超・美術館革命―金沢21世紀美術館の挑戦」 蓑 豊 - ideomicsの蓑さんと似ているものを感じた。骨董やお茶など「古いもの」に接している人の方が、より近代の絵画系の人より「現代的」な匂いがする。現代アートと親和的な印象。ちょっと前のものより、すごく古いものの方がかえって現代的で、インスピレーションが湧きやすいとしたら、ちょっとした逆説として面白いかも。


当たり前だが、茶の湯とは社交である。ヨーロッパに華やかな舞踏会があるなら、日本には洗練された茶の湯がある。ともに洗練された社交技術。自分にとってはコーヒーが茶の湯にあたるのかな。それを昇華したいと思ったり。ケトルでドリップしてコーヒーを出していく作業は何かしら神聖で厳粛なものがある。ちょっと考えてみますかね。ともあれ、利休が楽焼や侘びといった発想などを産み出した構造を、現代に再利用してみたいところ。自動車?家電?産業機械?無思想という思想?


茶の本」は茶人ではない岡倉天心が書いたもの。茶の湯を外から眺める本であり、かつ肝心の茶の湯自体には触れていないが、参考図書ではある。


利休の弟子、古田織部を主人公にしたマンガ。ギャグ的な要素もあり、敷居は低いけど、茶の文化は結構真面目に取材している印象で、薀蓄系マンガとしても秀逸。質の良い大人のマンガ。また読み返したい。