ideomics

オブジェクト思考ブロギング

批評・政策における科学・技術

「ウェブ×ソーシャル×アメリカ――〈全球時代〉の構想力」 池田純一 - ideomicsで、「これだけテクノロジーに溢れた世界では、人文系の素養だけでは、社会批評は成り立ちにくく、原発の話でも、エネルギーの話でも、テクノロジーを踏まえずには、構想できない。」と述べたが、どの分野もそうなっていくと思われる。


テクノロジーが文化へと流れ込む。多分これはいつの時代もあったことで、今に始まったことではないだろう。その時代ごとに、文化へと流れ込むテクノロジーが変わるだけで。でもそれは半歩遅れて。その時代でついていくのはなかなか大変。正直、自分も物理や化学好きじゃないし、科学とか技術とか言われても、医学・生物学以外の分野はついていける気はしない。


じゃあいわゆる「理系」の人材を入れれば良いのかというと、おそらくそうではない。一部を除いて、社会批評や政策設定に必要な、社会科学や人文のリテラシーが乏しいから。誰が悪いとか、足りないとかそういう話ではない。もちろん、現合衆国エネルギー省長官のスティーヴン・チュー*1みたいなスーパースターもいるけど、前提にはできない。



じゃあどうすれば良いか。ダブルメジャー(専攻を2つ)というのも選択肢だろうが、新たなシステムを作る前にやれることがありそう。


というのは、いわゆる「理系」「文系」という受験文化があまりに影響が強すぎると思うから。受験時代の便宜的な分類が、大学卒業後も、「私は理系なもんで・・・」というように通用してしまうが、おそらくその便宜的な分類は、利益よりも害が大きいのかもしれない。確かに専攻によって必要とされる学科は変わるけど、この大雑把な「理系」「文系」というくくりはあまり意味がないように思われる。いっそ一旦この用語を「禁句」にしてみてはどうだろう。


例えば、東京大学。入学時に、「理科」「文科」とわかれるが、この境界をなくして、いっそただの教養学部にしてみたらどうか。試験も、理科・社会併せて選択にしてみるとか。もし穏健にやるなら、既存のものは残しつつ、試みに「教養科」をつくったらどうか。選択科目は各自に任せて、進学する学部ごとに選んでもらえば、実用的には困ることもないはず。自分自身の専攻が固まったとしても、同級生に色々なディシプリンの人がいれば、何かが変わりそう。


もちろん、地道なサイエンス・リテラシーの向上も必要だろう。例えば、

みたいな書籍が増えるとそれはとてもハッピーなことだ。スティーヴン・チューといい、このリチャード・ムラーといい、(政権入りの予想される)エリック・シュミットといい、西海岸系の人材が多いのは気のせいかな。