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オブジェクト思考ブロギング

マチス:絵画の脱芸術化

アンリ・カルティエブレッソンの写真集"Inner Silence"を時折開く*1。撮影された人々は基本的カルティエブレッソンのお眼鏡に適った人なのだろうけれど、基本的には有名人なので、親密さや個人的な感情というのは伝わりにくい。しかし、中には個人的な親密さを持った対象もあるようだ。例えば、アンリ・マチス


カルティエブレッソンマチスに師事していたこともあるらしいので、それなりに親しい間柄なのだろう。写真集のマチスはかなりリラックスしている。しかし、私が興味を覚えたのは、写真集には収められなかったこのショット。



写真集の他の写真は背景がほとんど無地に近く、人物を主体に撮っているが、この写真は背景がしっかりとあり、かつ他の人も写っている。そして、何よりも気になったのは、この背景の中国画である。カルティエブレッソンはこの背景を意図して選んだのだろうか。あるいは写真を撮った時に、たまたま壁に架かっていただけなのだろうか。


前者とするならば、カルティエブレッソンが考えるマチスの表象としてこの中国画が大事だということになる。そして、この中国画の「平面性」や「装飾性」を考えると、マチスは、絵画の平面性を新たな地平として目指すとともに、絵の装飾性の復権も同時に目指したかったのではないかと邪推してしまう。個性を主張した主人公としての絵画ではなく、家の装飾として従たる位置としての絵画へと。


西洋画という、形而上学にも似た高尚さを持った文脈から、絵画を装飾の時代に押し戻すこと。新奇性や思想性、歴史的文脈といった難解さを乗り越えて、シンプルな感性の感動を呼び覚ますこと。マチスは絵画の歴史における新奇性として平面性や色彩を追求すると同時に、その文脈とある種矛盾するかのように、難解さとしての「芸術性」という要素をとってしまいたかったのではないか。あまりに「芸術」の王座に居座ってしまった絵画を「脱芸術化」してみたくなったのではないか。

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designをde+signという風に分解してみる。
de = 「分離」や「脱」を意味する接頭語
sign = 「記名」
とするならば、de-sign = 「脱記名」となる。
つまり、designとは記名=個性を追求しつつ、そこから普遍=アノニマス(無記名)へと抜け出す(脱する)試みなのではないか。とも言える*2

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マチス晩年の切り絵を見るならば、それはまさにde-signである。紛れもない記名=個性がありながら、そこから誰でも使える普遍性のある技術に昇華している。20世紀絵画はコンセプチュアルなものが多い印象であるが、マチスから喚起されるde-signあるいは装飾性というのは絵画の大事な一側面であろう。デザインとアートの違いという、トピックになりやすい課題の答えの一つは、そんなとこにあるのかもしれない。


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2017年2月23日追記:

de-sign=脱-記号とも。現象を脱記号化する。意味や兆候を読み込まずに。

salience=senseとして、現象に意味を読み込む/読み込んでしまうことがある。しばしば過剰に、自分を追い込むほどに。現象をsign(兆候・記号、シニフィアン&シニフィエ)として、そこに意味を読み込む/読み込んでしまう。意味を読み込みがちな人にとっては、「意味のなさ」が救いになることがある。とはいえ、無-意味だと物足りなくて、脱-意味がより望ましいという欲求もある。