カポディモンテ展雑感
カポディモンテ展に飾られた「パルミジャニーノ《貴婦人の肖像(アンテア)》」。館長曰く、「ここ(カポディモンテ美術館)の看板娘」とのことだが、なるほど一際存在感がある。
特に印象的だったのが、背景の深く濃い抹茶色と、婦人の服の茶・黄土色のコントラスト。背景の深く濃い抹茶色は、実際の家の壁ではなく、画家がモデルに相応しいと考えた色を頭で捻り出したものだろうと推定される。
実際にどうかは置いておいて、この絵は他の絵に比べて、「芸術」を感じるのは、完成度だけではなく、その色合いやらを追求する姿勢のためであろうと、ふと思われた。仮にそれが色彩の追求(やモデルの姿勢)の結果であるとしたら・・・それは同じく西洋美術館に置かれたルネサンス以前の宗教画との比較において、何が「芸術」という感覚をもたらすのかを伝えているのではないだろうか・・・芸術というよりは工芸・工業製品といった趣の宗教画と比較して。
端的に言ってしまえば、ゴールを設定しないでエンドレスに追求するか、あるいはゴールを設定してそこに到達したら試合終了とするか。ルネサンス以前の宗教画も、中には完成度や技術において、後世にひけをとらない作品もあるのだろうが、どこか完成図が透けており、その完成図をゴールとして、「完成」してしまっている。そこには目的=テロスがあり、そのテロスからトップダウンに製作がなされている。一方、我々が「芸術」と感じるものの多くは、テロスからのトップダウンというより、何か先の見えない道の途中にあるようなものが多いように感じる。*1
芸術とは、絵画や彫刻といったジャンルによるカテゴリーではなく、ゴールを設定せずに何か追及する姿勢なのではないか、と考えたとき、ルネサンスがもたらしたもののひとつが腑に落ちた気がした。そして、レオナルドが何故にもこう高く評価されているのかという疑問に対しても。
それは彼が、彼以前まで(宗教を伝えるための)手段と見なされていた人物造詣や風景や色合いを、本来の宗教的な目的とは別に「追求」し出したからではないか、という答えがありうるのではないか。言うなれば、手段の暴走、あるいは目的からの離陸。有体に言えば技術の追求。なるほどレオナルドほど「完成」された作品が少ない作り手も少ない。
逆に言うなれば、ルネサンス期のイタリアにおいて、上記の意味で、工芸製品が「芸術」を生み出しているわけだが、これは他の時代・場所にもアナロジーとして当てはまりうるのではないかとも考えられる。中世のイタリアや古代ローマの工芸製品であった絵画や彫刻が「芸術」を生み出したように。例えば、日本の工芸製品を土壌にしたとして・・・日本刀、漆器、木材建築、陶器などを土壌にしたとして・・・何が産まれうるかは、考えに値する思考実験であろう。既に幾つも作品はあるけれど、同様に、あるいは別様に。
工芸製品が工芸製品であり続けるためには、その製品の目的は果たさなければ使い物にならない。陶器や漆器であれば、器として、建築であれば、住まいとして。その中で、何か目的から離陸しうる要素は何だろうか。(もちろん、そのためには土壌となる工芸製品群と技術達が生き残り続けなければならないが。*2)
伝統を探ること。芸術以前のものから、芸術への離陸する気配のものを捕まえること。手段が、技術が、目的から離れて暴走するには?
考古学とは何だろうか?
旧きを尋ね、新しきを知るということとは?