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オブジェクト思考ブロギング

「産業人の未来」 ピーター・ドラッカー 

(2007年10月7日の再掲)


先日ドラッカーの「産業人の未来」(1942年)を読み終わりました。「社会における人々の位置づけと役割」、「(社会で中心的な)権力の正統性」を切り口に、歴史を振り返りながら(特に全体主義批判を通して)、産業資本主義社会における社会のあり方を提案した本。


社会における中心的な価値によって、宗教人の社会、経済人の社会、知性人の社会、政治人の社会などとクリアカットに分類し、例えば西洋の中世ならば、「宗教人」の社会と定義され、人々の位置づけや役割、権力の正統性が宗教に基づいて構築されていたという風にまず準備説明。


そして19世紀の西洋社会を、資本主義ベースの「経済人」の社会とし、産業資本主義経済が上手く組織化されていなかったため生じた問題(労使対立など)に対して、同じく経済を中心とした価値観で対処した「経済人」の社会たる共産主義と、党への忠誠心や軍事への貢献、英雄思想を中心とした「英雄人」の社会として再構成されたナチス全体主義をともに説明しつつ批判。どちらも「産業」資本主義・・・商業資本主義という市場と人が直に対峙する社会に対して、人々と市場の間に「企業」という組織が介在する産業資本主義・・・に対応した結果だとしているのがポイント。ただし、共産主義は「経済人」の枠内での解決を目指すにとどまったが、ナチスはもっとラディカルに社会の中心的な価値を変えようとした。経済の政治に対する従属。「経済人」に満足できない人が多かったからこそ、当初ナチスは支持されたのだったらしい。


共産主義全体主義いずれも上手くいかず破綻。じゃあどうすればいいのか?・・・ドラッカーは、「産業」資本主義に適応した「人々の位置づけと役割」「権力の正統性」を考えることで「経済人」なるものに対応しなければいけないし、さらに「経済人」という考えを以外にも中心となる価値を見つけなければいけないと説く。


前者に関しては、企業など組織の中での人々の位置づけと役割が決定的に重要になり(職場コミュニティの構築や従業員への責任付与など。働き甲斐ってやつもかな。リクルートみたい)、企業経営者及び経営そのものが、社会的に責任ある主体として振舞うことで、(従業員や消費者などに対して振るう)その権力が正統化/正当化されるとしている。そこから彼の「マネジメント」なる概念が産まれたのだった。
後者に関しては、副題「改革の原理としての保守主義」の通り、バークやアメリカ建国の父達の保守主義・・・個々人の自由と責任を伴う自由主義、政府における自由と社会における自由の区別など(以下割愛)・・・を尊重すべきとしている。


他にも面白い指摘満載・・・キリスト教においてこそ社会の自由と政治の自由の区別が生まれただとか、ルターによって「知性人」が誕生しただとか・・・だけどめんどいので割愛。


どの指摘も、歴史的には興味深く、社会的には鋭く妥当で、実存的にぐっとくるものだった。てか彼にとってのマネジメントとは、経営効率や戦略よりも、働く人の位置づけや役割、社会的な主体としての企業の責任(岩井克人の法人論にもつながるかしら。法人関係の勉強でもするかな)が主たるものだったのか・・・なんか納得。マネジメントというと経営戦略的なものをまず最初に浮かべていた身としては、180度(ってほどではないけど)見方の変わる体験だった。絶品。社会評論が好きな人はお気に召すかもしれません。きっと。うんきっと。


ドラッカー初期三部作のうち2番目。1番目の「経済人の終わり」と3番目の「企業とは何か」も合わせて読むと理解が深まる気がするけど、2番目が要約的にまとまっていて秀逸な印象。




一人ひとりが「位置」と「役割」を与えられ権力が「正統性」をもたなければ、社会は機能しない。反中央、地域志向、反教条主義の「自由」を保守すべき根拠を掘り下げ、第二次大戦のただ中、戦後世界が「産業社会」になると予見し、その青写真と、米国の使命を明快に論じきった堂々の力作。生涯を貫く問題意識と方法論を知る社会改革への野心作。