ideomics

オブジェクト思考ブロギング

古都ニューヨーク

古くからのニューヨーカーは、クリスマス・プレゼントの本を買うとき、アマゾンではなく地元の本屋で買うようにしている。そちらの方が地元の経済が潤っていい・・・とある記事の中で、この一節を通りがかったとき、私は軽いショックを覚えた。


私が幼かったとき、NYは世界の最先端にいるはずだった。NYといった言葉が付いたものは何であれ、最先端のものであることをアピールしているはずだった。NYは先端を走り、他のものが後を追いかける/反発するという構図で世界は動いているはずだった。


しかし、ニューヨーカーが、アマゾンに「反発」し、クリスマス・プレゼントは地元にキャッシュを落とすという地域振興まがいのことをし出したとき、NYは先端よりも保守/防衛のサイドに回っている。このときから、私の中ではNYが古都への第2の人生を始めようとしていた。


近年マスジャーナリズム、マスメディア、広告といったマス志向の情報流通システムの危機が叫ばれている。そして、これはNYの危機でもある。NYという情報流通でなりたつ都市に構造的な危機が迫る中、さらに金融というこれまた情報流通業でのダメージも重なった(こちらは構造的というより周期的なものと言えるかもしれないが)。


マス志向の情報流通に関しては、今後の復権は期待できないだろう。情報の流通システムがウェブに奪われたとき、NYはold journalismという「文化遺産」の保存庫となり、 分散され個人化されたnew journalismがジャーナリズムという言葉を侵食していくのかもしれない。


これらは悲しむべきことだろうか。NYを古都と感じ始めてから、むしろあの街がより愛おしく思えるようになった。2004年に彼の地を訪れたときは、何かどんよりとした空気を感じて軽い失望を覚えたけれど、古都への第2の人生に向かう更年期であったとするならば、それは成熟へのひとつの証でもある。


サブプライム、9.11(この事件はワシントンではなくNYで起こった)・・・これら一連の出来事でハードパワー的な威光が傷ついたとき、むしろ今までハードパワーの下で見えにくかった文化の顔がはっきりと現すのではないだろうか。


古都という表現には、役目を終えたというネガティブな意味もあるが、それだけの厚みある歴史をもったというポジティブな意味合いの方が強い。本の買い方にしても、反動的という批判はなりたつだろうが、便利さを犠牲にしても守りたい価値のあるものがあると捉えることも可能である。(そんな自分は結婚式の祝いをアマゾンで注文してたりするわけだけど)


古き佳きNYの文化を保存していく営みがくっきり見えてくれば、NYは古都として今までとは違う輝きを/も放つだろうと思うのだが。