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オブジェクト思考ブロギング

「日の名残」 カズオ・イシグロ

貴族がいた時代に戻りたいとは思わないけれど、貴族のいた時代の空気を感じてみたい。綺麗な庭園と紅茶の香る雰囲気を味わいたい。そんな期待に応えてくれる小説。

↓の通り、ある執事の回想録として書かれた小説である。作家は実際に貴族社会で生きた人間ではないので、あくまでも想像として書かれているのだが、我々が思うかつての古き佳き時代の空気をよく伝えてくれる(と感じさせる)。

民主主義と大衆消費社会が両手を携えて、政治、経済、文化を変化させていったが、この小説は、ひとつの時代の「忘備録」として長く機能してくれるだろう。貴族が生きていた時代の、特に20世紀初頭最後の時代の。そして、現代を生きる我々には、想像的なノスタルジアでかつての空気に心満たされる体験が提供される。読み終わる頃には、きっと紅茶を買いに行きたくなる。


執事という仕事の詩情を伝えるという意味でも面白い。階級が平坦化していくと、誰かに仕えるserveという発想を持ちにくいが、サービス業serviceではなんだかんだいって求められるもの。

一部の人は心から仕えるという発想を持てるのだろうけど、普通はそんな域には達せない。そんな普通の人にとって、この主人公のような生き方に触れることは、貴重な体験となる。ちょうどリッツカールトン関係の文献を読んでいた時期と重なっていたのもあったけれど、ホテルスタッフの参考書として用意しておくのも悪くないと思ったり。


ちなみに、この執事さんの主人は外交関係に関わる貴族で、外交会議のシーンなんかも出てくる。ハロルド・ニコルソンの「外交」という本が、エリートたる貴族が主導していた外交としてのold diplomacyから、民主主義が勢いを増し世論に左右されるようになったnew diplomacyに時代が移っていく様子を叙述しているらしいのだが、そんな変遷に思わず感じ入ってしまった。エリート/貴族社会から大衆/民主社会へ。ヨーロッパ中心からアメリカ中心へ。