2009年7月号のクーリエ・ジャポン
7月号の特集は「サヨナラ、新聞(ジャーナリズム)」
若い世代に属する(と信じている)自分にとって、新聞が落ち目になっていくのは、あまり気にならないし、ウェブに面白い記事なんかが転がっているからいいんじゃないと思ってはいる。比較的歳のいった人が憂いてるような内容の稚拙さとかは、本人のセレクションの問題だから、あまり議論したいとも思わない。それに、一医療者として新聞を読んだりすると、医療関係でたまに酷い(事実をちゃんと調べてないという意味で)記事にあたったりするもんだから、本職っていってもどうなのよという感じも否定できない。
とはいえ、このクーリエに紹介されたニューリパブリックの記事にはいくつか気になる文章が。
「新聞が報道するニュースの数が減ることによって懸念されるのは、行政の汚職の増加だ。」
「(新聞社が規模を縮小している状態では)ジャーナリズムがその使命としてきた、政府や企業を監視することもままならないだろう。」
「新聞はニュースのほかに、国家監視の手段を私たちに提供し続けてきた。その国家監視の手段の存立がいま危機にさらされているといえよう。新聞を「第四の権力」だと称することの意味合いを思えば、新聞の時代の終焉は、私たちの政治システムの変化をも意味しているといえる。」
もちろん、タブロイド系の新聞・雑誌や、オンブズマン的な仕組みの強化なんかで、汚職対策はどうにかなるかもしれないが、この点に関しては、あまり楽観的ではいられない気がしてきた。
特に、「新聞」が民主主義国家としてのアイデンティティに深くかかわってきた国では、政治制度レベルの問題になるんだぁというのはひとつの感慨。サブプライム以後の金融システム構築に匹敵するような、ロングタームで深い層の課題なのかもしれないと思ってみたり。
「第四の権力」としてのジャーナリズムのこれからのあり方に関しては、このクーリエなんかをたたき台にしてディスカッションしてみたいものです。
参考としてひとつのオプション
http://www.defermat.com/journal/2009/000397.php
http://www.defermat.com/journal/2009/000382.php
この件に絡んで
http://www.defermat.com/journal/2008/000330.php
そういえば、この号に載っている村上春樹のインタビューがなかなかよかった(スペインのエル・パイス紙)。
彼の言葉
「小説を書くとき、僕はできるだけ上手に嘘をつかなくてはならない。偽のレンガで、”真実の壁を築くこと”、それが僕の仕事です。」
誰もが、希望的な観測願望や色眼鏡や思い込みで、人生や”現実”をフィクションとしてしか生きられないというように思えた今日この頃。なんとなく小説というものへの抵抗が消えてきた。