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ideomics

サブジェクト⇔オブジェクト思考ブロギング

イタリア旅行5 ローマI

古代ローマの首都、カソリックの中心地であり、バロック美術の宝庫。日本の地方中心都市くらいの規模である。ローマ法やキリスト教といったヨーロッパの源となった思想や発明を生み出した場所であり、「世界の首都」と呼ばれるのも由なきことではない。前半戦は、友人Gとまわり、後半戦は友人Hとまわった。一つの都市を違った人と過ごすと、同じ都市も異なる表情を見せる。隣にいる感性が、都市の別な面を見させてくれるらしい。


ローマと言えば、コロッセオが最も有名であろう。



私達もまずコロッセオに訪れることにした。古代にこのような建築物が存在したことは脅威的だが、それをはるかに上回る衝撃的な発見があった。アメリカ人の圧倒的な多さである。イタリアに来ている人の半分がアメリカ人というわけではないのに、コロッセオでは少なくとも半分はアメリカ人ではないかと思われた(ラフな格好で、多人種の団体客が特徴的)。ウフィッツィとは対照的だ。


アメリカ人は、古代ローマに対し大いに敬意を持っているのだろうか。ユースホステルのアメリカ人に、友人が聞いたところによると、古代ローマの歴史は高校で結構学んだものらしい。憧れに近い感情が形成されている人もいるようである。ローマの遺跡でご飯を食べていると(遺跡は公園になっていて、飲食禁止ではない)、アメリカ人がcrazy things!といって怒り出したり、get out of history!という表現が飛び出してきたり。どうやら、古代ローマは彼らにとって非常に神聖なものらしい。

アメリカ以外の国の人間である我々には、彼らの「帝国性」と古代ローマのそれとが思わず重なる。無論、現在の帝国性とは、剥き出しの侵略ではなく、言語や通貨といったシステムの流布や、制度や思想の伝播のことであり、一種のグローバリズムと≒のものである。(ニュートラルな意味で帝国なる言葉を使っており、良い悪いの問題は横に置いておきたい。)アメリカに代表される「帝国性=遍く支配すること=グローバリズム」の強さが、古代ローマの強さと実に重なって見えたのであった。

日本のようにアメリカのものが溢れている所では、アメリカは外部のものと強くは感じられず、侵入されている感は薄いような気がするが、アメリカのもの少ないイタリアでは、マクドナルド(マクドナルド以外にアメリカらしいものはほとんどない)の存在感がかえって浮き立ち、アメリカが外部の侵入者であると強く感じてしまう。イタリアにいると、ヨーロッパ人がアメリカやアメリカの文化に反発する気持ちもわかってくる。


しかし、同時にアメリカに代表される「帝国」のありがたさも強く感じられるのである。都市の独立性が高いイタリアでは、銀行もローカルなものばかりで、金銭管理が面倒だし、都市を結ぶ鉄道も少なく、移動がやや不便である。システム統合や政治の統一感もなく、政府機能が貧弱であるし、ある種の「統治」が必要であると感じる。


友人Hのイタリア人の友人B氏は、アメリカの帝国性に感情的な反発を感じながらも、その価値を認めているようだった。B氏にローマの共和制とローマ帝国のどちらを評価するかと聞いたところ、帝国との答えが返ってきたのは、非常に印象的だった。統一の欠如は、圧制ほどではないにせよ、それなりにデメリットがある。イタリアはそれがわりと顕著だ。

そう言えば、友人Gは4月から、アメリカ産の企業に勤め始め、「帝国」布教の先兵となる予定である。イエズス会カソリックにおいて果たしたように。古代ローマの中心で、「帝国」への感慨に浸っているのだろうか。


ちなみに、コロッセオにおいても日本の女子大生は大きな存在感を放っていた。コロッセオでとても楽しげにクリエイティブなポーズ。幾多の奴隷が死んだこの血塗られた場所で、彼女達は満面の笑顔だ。歴史の文脈を脇に置き、全てをフラットに眺め、現在を謳歌する。どうやら私達は、日本の「女子大生」が、単なる性的興味を超えて好きらしい。彼女達のもつ何かしら・・・はっきり表現できないのはもどかしい・・・は、もはや我々の希望だ。そして、歴史の重みに圧迫されたヨーロッパにとっても。




結論:アメリカと『帝国』についてもっと良く知ろう。