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オブジェクト思考ブロギング

ヤギシーニ ── 科学について ──

マサキウスが友人のヤギシーニに借りていた本を返しに来る。

「やぁヤギシーニ、君に借りていたハイゼンベルクの「部分と全体」を返しにきたよ。」

「おお、ありがとう。」

「序文が特に良かったね。「科学は人間によってつくられるものであります。・・・中略・・・それにたずさわってきた人々は、実験の意味することについて熟慮を重ね、お互い討論しあうことによって成果に到達していくのです。」という所だ。人文学と科学というと、2つは別なものという認識になりがちだけど、両方とも「人間による討論」によって成り立ってきた同根なのだという指摘がなかなか興味深かった。」

「この本は、「科学とは対話である。」というテーゼが繰り返し出てくるよね。物理学者の自叙伝ではあるけど、主軸となっているのは同僚達との「対話」だものな。同じ序文に、「討論が行われた当時の雰囲気を正しく、そして生き生きと叙述することに重きを置きました。というのは、こういう叙述の中にこそ科学の創造の過程がはっきりとあらわれ、非常に異なった人間が行う共同作業が、どうようにしてついには大きな意義を持つ科学的な成果に導かれるかが最もよく理解されるからであります。」とはっきり言っているしね。科学を学問と言い換えても、そっくり成り立つね。」

「考えてみれば、科学ジャーナルだって対話の変形だね。引用して別な人に引用されてってのは、dilogueならぬpolylogueと言えるしな。実際、この引用という伝統なんて、まさに人文主義的なものかもしれない。14,15世紀の人文主義者のあの鬱陶しいほどの引用の嵐といった現象がなければ、今のジャーナルにある引用の文化はなかったかもしれないしね。科学者が当たり前のこととしてる引用という文化も一種の「発明」かも。」

「そうかもね。しかし、僕がより興味深いと思ったのは、本の冒頭に引用してあったトゥキディデスの文章だ。ここの「ところで、語り合った言葉の一言一句を、耳証人として正確に記憶にとどめておくことは私には不可能でした。そのため、私は推測によって、最も適当であろうと思われるように、個々の話し手に語らせることにしました。その際私が努めたのは、実際に述べられた思想の展開に、できる限り密着することでした。」という所だね。」

「それは、物理学者達の対話を記録したというこの本の内容の説明にあたるわけだろ。君がさっき指摘した箇所とかぶってるけど。特に取り立てて面白い部分はないようだが。」

「僕が面白いと思ったのは、この文章自体ではなく、彼がトゥキディデスの「戦史」を引用したという事実なんだ。戦史と言えば、アテネ陣営対スパルタ陣営のペロポネソス戦争を描いたものだが、物理学者達の対話に対して、この戦争を描いた「戦史」を当ててきたという点が、非常に機知に富んでると思うのだ。つまり、彼の隠れたメッセージとはこうなのじゃないかな。「科学における対話とは、戦争である」」

「なるほど。かなり曲解な気もするが、興味深いね。単にハイゼンベルクは「戦史」が好きだっただけ可能性が濃いけれど。」

「もちろんひとつの解釈としてということだよ。一種の冗談とも言えるが。しかし実際に、科学を発展させたものには、対話のひとつの形として戦争=論争があるはずだ。穿った見方をすれば、論争を暗に勧めているとも言えるか。まぁ明らかに曲解だろうが。」

「確かに、論争を肯定的に捉えるのは必要だね。進化論においても、ドーキンスとグールドの論争によって盛り上がったのは否めないし。科学にも、リングマッチのエキサイト、スポーツ的な興奮はありうるね。」

「ギャラリーの視点としてそういったエキサイトもあるだろうけど、やはり当事者としては、論争そのものに参加する楽しさを挙げたいね。実際、科学なる営みは、真理をめぐる闘争、人間的あまりに人間的な闘争とも言える。お茶の間的な知的好奇心に動かされる雑学と、真理への支配欲・競争心・力への意志が動かす科学とは異なる面があるのだという気がするね。それに参加するのは、一種の戦争であり、スポーツだな。」

「古代オリンピアのように、スポーツは戦争の隠喩という機能を持ってるけど、科学もスポーツと共通するものがあるということか。しかし、実に男性的だな。」

「あえてそういう面を取り出しただけだよ。もちろん、全てがそうだと言っているわけでは決してない。学習をベースとした「勉強」と、討論をベースとした「学問/科学」の違いを今更述べる必要はないだろうが、討論をいかにして行うかという作法を探求するのはひとつの課題だね。論争という戦争の作法をね。」

「うむ。同感だ。」

「ところで、僕が最近気にかかるのは、君がそういった「戦争」から遠ざかっていはしないかということだよ、マサキウス。周りと仲良くするのは良いことだと思うし、いわゆる科学や学問から離れるのも気にはならない。がしかし、君が内に秘めた「殺意」を失っていくのは悲しいことだ。何となれば、僕にとって男性とは、Y染色体のことでもなく、股間にある外性器のことでもなく、「殺意」・・・研ぎ澄まされた集中力や戦闘意欲の極北として「殺意」・・・のことであるから。」

「うむむ。」

「男同士の関係の美しいあり方のひとつとして、真剣で斬り合う関係があると思われる。敬意ある殺意をもって、喉元の1mm手前寸止めまで真剣で斬り合う関係だ。本物の戦争は反対だが、隠喩としての戦争は発展と成長を促すだろう。しかし、最近の君は真剣が錆付いているように思われるのだが。」

「うむむむ。鞘の中で錆付いている気がしなくもない。実際我が身に少し感じていたことでもあるな。反社会的になるつもりはないが、殺意の手いれを怠ってはならないかもね。内側の殺意や狂気と、それに拮抗する力としての外面・・・それが、公共心からであれ、マーケティングからであれ、博愛からであれ、習慣からであれ・・・を持つことが必要なのかもしれぬ。しかし、君のように非戦闘員にも刃を向けるのは如何なものか。」

「まぁ確かにね。だが、それは昔の話だよ。いやしかし、君の場合は、深く斬りこんであげたほうがかえって思いやりというものかもしれないな。」