ソフィストの弁明
学生のマサキウスとコンサルタントのゴローティオがスターバックノヌスの店で対話している。
**
「さぁマサキウス、マッキンゼノン学派へのエントリーシートは書けたかな。」
「このようなもので如何でしょう、ゴローティオ先生。」
「うーむ。この部分の表現やこの部分の論理の立て方をもう少し工夫した方が良いな。」
「手厳しいですね。どうも細かい気がするのですが・・・。」
「最初は細かいと思うかもしれないが、表現の仕方、伝え方というのは実に大切なものだよ、マサキウス。そして、我々コンサルタントには、そのプロフェッショナルであることが求められているからね。コンサルタントというのは、いわば現代のソフィストあるいはキケロニアンCiceronianなのだから。」
「(>_<)・・・はい。ところで、ソフィスト、キケロニアンとは何でしょう、ゴローティオ先生。」
「ソフィストとは、ギリシア時代に、弁論術や政治論争などの指導を仕事としていた人々のことで、キケロニアンとは、キケロCicero*1 を理想として、弁論術や修辞などを訓練する人々のことだよ。目に見えるものづくりなどをしていないため、虚業などとの批判を受けることもある我々だが、プレゼンテーション、思考プロセス、レポーティング、ヒアリング、議論の仕方といった現代の基礎教養を担う新しい人文主義者としての誇りがあるわけだ。中世には、自由七科liberal arts*2といって、教養課程の目録があったが、現代におけるそれを担当しているのが我々だ。我々は、ギリシア・ローマから始まり、アングロサクソンへと継承されてきた人文主義の伝統に立っているのだよ。」
「なるほど、格好いいなぁ。人文主義の伝統ですか。何だか教職みたいですね。コンサルタントというと、もっと経営に関する専門家だと思っていましたが。」
「もちろん主軸はそこにあるに違いない。経営コンサルタントを、『経営』コンサルタントと解釈すると、経営に関する知識の蓄積が主となるかもしれないが、経営『コンサルタント』と解釈すると、教職に近くなるのかもしれないね。バーバラ・ミント女史が、『考える技術・書く技術』という書を著したが、こういった基礎的なものの考え方は、現在の国語教育に必要なものだと思うよ。我々も知識や知恵の流通業者あるいは頭資銀行家として普及に努めねばならないね。こういった根本的な技術は、本来教育制度によって若い段階から段々と身につけておくべきだと思っているのだが・・・現在の学校教育はフランス革命期から、200年も経つのにあまり変わってないのだよ。しかし、現代の自由七科にあたる知識を普及させようとしている人々がいる*3のは希望が持てる点だ。」
「教職かぁ・・・。教職でもそうですが、自分で結果を出すのではなく、人を通して結果を出すというのは歯がゆくなってしまうことがありませんか。言うこと聞いてくれなかったり、ちゃんと伝わってなかったりで。かつて、マッキンゼノン学派の先生に、他者を通して結果を出すことの意義と難しさをお聞きしたのですが。」
「その点については、我々も探求している途中にあるのだよ。プレーヤーとして自分で活躍することと、コーチとして人に結果を出してもらうことのジレンマ、当事者と観察者のジレンマについてね。全てに答えが用意されてると思ってはいけない。自分で見つけなければいけないこともあるのだよ、マサキウス。」
「わかりました、ゴローティオ先生。」
「ソフィストという表現には、場合によってネガティブな意味が付されることもあるが、我々は教職や人文主義者としての誇りを持っているつもりだよ。そして、この仕事は世に必要だとも思っている。世の中にはソフィストとソクラテスの両方が必要なのではないかな*4
。外資系と呼ばれることが、ヨーロッパやアメリカの歴史の所産であることの褒め言葉であったら、我々も嬉しい限りだ。マサキウスの友人にも、色々な学派を志す者が多いと聞くが。」
「ええ。才能ある方が多く、刺激を受けています。」
「それは楽しみだね。マサキウスも、経営とは?companyとは?といった問い以外に、人にものを伝えるとは?他者を通して結果を出すことの意義とは?といったことも考えてみてはどうだろうか。優れた教職者や人文主義者でもある人がいたらきっと素晴らしいに違いないね。」
「そうですね。もう少し勉強してみようと思います。課題が増えちゃった・・・。」
「そんなに肩を張らなくてもいいと思うよ、マサキウス。今夜はひとまずロッポンギウムの酒場に繰り出そうではないか。」