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サブジェクト⇔オブジェクト思考ブロギング

歴史家とは誰か

先週の週末はパーティや飲み会といった行事に恵まれていた。まずは誘ってくれた方々に感謝したい。ここ最近こういった機会が多いが、得た出会いに応答しきれていないと、時間が経つにつれなお反省する日々である。おそらく出会いを自分の血肉とするためには、記憶を消化し吸収していく作業が必要なのだろう。そして、そのためにはある程度自分と内省的に向かわざるを得ないのだ。


こと六年になると、将来何やるの?とか何科に行くの?と聞かれることが多いが、その度に曖昧な返事をしたり、暫定的な展望を伝えたりしてきた。それはそれで1つの真実である。しかし、そのような言葉でのコミュニケーションの奥底には、(職業的な意味ではなく)実存的な意味で「歴史家」でありたいという気持ちが、強く在ったように記憶している。いやむしろ今もそうだという言うべきなのかもしれない。


実存的な意味での「歴史家」。昔は自分でも何を言っているのかよくわからないまま、言葉だけが心の中でエコーしていたのだった。表現がまず直観的にあり、その内容を後から考えているという転倒した状況にあったのだ。「歴史家」とは誰か。答えを探していた。そんな時期のとある初夏の日、神田川のほとりを歩いていると、一組の家族・・・若い母親と赤ん坊、そしてお婆さん・・・が散歩しているところに出くわしたことを思い出す。


お婆さんと思しき初老の婦人がベビーカーを押しながら、若い母親が赤ん坊に日傘を差す。三人は談笑しながら(赤ん坊はきゃっきゃ言ってるだけだが)、こちらに歩いてくるところであった。まだ若く綺麗なその母親は、夏の強い日差しにありながら、自分の白く美しい肌を気にすることもなく、不快な日差しの晒されるのを気にすることもなく、ただ赤ん坊にだけ日傘を差していたのである。赤ん坊はとても満足そうな笑顔を浮かべているようであった。そしてその母親とお婆さんも、淡々と日傘をさしつつベビーカーを押しつつ笑顔で楽しそうに歩いてくるのであった。


その時、答えが啓示されたのだ。


「歴史」とは、今自分の持てるものを次の世代に伝達・継承していく「営み」にあるのだ、と。彼女達がベビーカーを押し日傘を差す出すように、今あるものを次の世代へと楽しく談笑しながら、そっと差し出していくことにあるのではないか、と。


歴史とは何かという問題に対しては、古今色んな人が十人十色の答えを出してきた・・・例えば、「歴史とは過去と現在の対話である」(E.H.カー)・・・わけだが、しっくりとくる答えに出会えることはそれまではなかったように思う。そんな中で、最も心に響く答えをくれたのは、全く予期せぬ市井の家族の姿であったのだ。伝えるべきもの・・・思想であれ、作品であれ、愛情であれ、制度であれ、知識であれ・・・を丁寧に包んで後世に伝えてゆくこと。先人や自分が大切にしてきたものを、次の世代に手渡すこと。そして、それは彼女達の幸せな"maternity/mothership"に対置される"fathership"となりうるのではないか、と。


歴史という言葉に対しては、先達の例から学んで現在に生かそうという現在中心・自分中心の見方をしていたが、もっと未来へ投企した形での「歴史家」があるに違いない、と今は思える。そして、あの母の日傘と赤ん坊を記憶していく営みもまた、そのあり方の1つになれと願うのだ。


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フィレンツェには、13、14世紀あたりから税金の台帳が蓄積されていると聞いたことがある。そこにイタリアの偉大さを感じながらも、当時はなぜ感動を覚えたのか自覚していなかったように思う。記録そのものにあるのは専門的な学問上の価値でしかないというのに。時が経ち、その記録を伝えてきた人引き継いできた人の営みに眼を向けられるようになった今、私は「歴史家」達の歩いてきたあの道へささやかな一歩を踏み出せているだろうか。