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オブジェクト思考ブロギング

メアリー・カサット


最近行った展覧会から気になった作家の作品を。(上から、メアリー・カサット、ベルト・モリゾ、3つめは見たことないけどおまけ。ただしフィラデルフィア美術館展でのカサットの作品は写真がなかったので別な作品。)


どの作品も母子やその関係をテーマにした作品だが、ここでは、カサットの絵には母と子が両方描かれているのに対し、モリゾの作品では子供だけが描かれている(作者であるモリゾ=被写体の娘の母という関係)。2人の作家が他の絵もこれらと同じように描いているわけではなくて、母と子を描いたり子供だけを描いたり自由にやっているわけであるが、なせだか上の右2つの絵が妙にコントラストを為して記憶に残ってしまっている。


モリゾには娘がいたので、母=画家が画面に不在であることが多く、カサットには子供がいなかったため、他人の母子を描くことがメインだったということは1つの理由であろう。画家=母=当事者としての色合いが強いモリゾ・・・ゆえに作品が私的な香りにつつまれているように感じる・・・に対して、画家=第三者/客観者(≠母)が相対的に強いカサット。どちらがより愛情深いといった話ではなく、「基本的な視点」の違いがコントラストを為しているように感じる。


当事者であることcommitmentと客観者であることdetachmentの二項対立はいかなる対象と付き合うにせよ、常に生じるジレンマであるが、メアリー・カサットという人はそれをどう解消したのだろう。そして、自分の立場にどのような思いを抱いていたのだろうかと思う・・・カサットの作品=眼差しには、純粋に優しさや愛情だけがあったのだろうか。母子に対して第三者であることそのものにも意味を見出していたのか。


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カサットに関する説明に「母親が行う子育てを描くことを通して、母という存在の社会的役割を探求した」といった内容があったのを思い出す。この「社会的」役割という部分は、まさしく自分も興味あるところだが、それを絵画で表現するというのを未だ受け止められず、どうしたらわかるようになるのかと考える。「社会的」といった時点で、ある種の客観的な(より学問的な?)眼差しになるのだろうが、それを絵にするとは。


同時に、これだけ子供を愛のこもった眼差しで見られる(他の作品もすごいいいです。いやほんとに。興味あったらMary Cassattでグーグルイメージ検索するべし。)人が子供を持たなかった事情を考える・・・そして生物学的には母という立場は経験していなかったにも関らず、色々な人からマザーと呼ばれたある修道女を想起する。biologicalには、maternityを生み出す1つの因子として、オキシトシンという脳から出るホルモン(出産とか授乳のときに出てる)が想定されていると聞くが、妊娠などを経験していないはずのこれらの人物に感じるmaternityとは何なんだろうか。


実習を通して最も心に残ったのは、母であることを強さ・・・娘に自分の肝臓を移植してくれと医師に懇願する老婆や、神経系の不治の病に罹った息子に2週間1日中付き添う婦人・・・であり、こういった場面に在るために大学に入ったのだと振り返って思うのだが、それにしても未だにそのmaternity/mothershipが理解できないでいる。まして、より別様な母達のそれを、は言わずもがな・・・「『母』というのは現実に存在するが、『父』というのは法律上の虚構に過ぎない」というある作家の言葉が思い出される。ある種の無力感を抱きつつ、それでもなお我々は彼女達のmaternity/mothershipに相当しうるfathershipといったものを探さなければならないのだと思いつつ。


PS.
となんとか小難しいことをいいつつも、ルグラン嬢の肖像(ルノワール作)を見つつ「あらかわいいじゃないの」と言って通り過ぎた推定50歳過ぎの力強そうな婦人(@フィラデルフィア美術館展)に、圧倒的な敗北感・・・何とも言いがたいが・・・を感じたことを追記しておく。