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オブジェクト思考ブロギング

ディメンジョン診断と介護保険制度

DSM5への移行に当たって活発に議論されたトピックとして、カテゴリー診断vsディメンジョン診断というものがある。簡単に言うと、カテゴリー診断というのは、XXX病といったカテゴリーに分類すること、ディメンジョン診断というのは、A軸がこれくらい、B軸がこれくらい、C軸がこれくらい、、、、というようにいくつかの軸でそれぞれ評価すること。


後者の方がより緻密な議論になりうるが、現状では軸の妥当性が確定しているわけでもなく、またきれいに定量できるほど基準があるわけでもないので、支持が多数派とは言えない。が、精神医学の考え方に馴染むところもあり、コンスタントに支持がある(なのでDSM5への移行でも熱く議論された。結局は折衷的な形になったが)。


先日同僚たちと話をする中で、ディメンジョン診断に対するひとつの反論として、医療保険制度と馴染まないのではないか、という話があった。というのも、今の医療保険制度は「病名をつけて」その上で点数化して、保険・自己負担がどのくらいかという金額が決まるから。


しかし、考えてみれば急性期医療はこれで良いとしても、慢性的なものになればなるほど、病名ベースなものよりも、その人が持つ問題を複合的に評価して、保険の補助なりを決めた方が合理的かもしれない。つまり、ディメンジョン診断の考え方の方が、保険制度としてもより適当かもしれない。精神医学に関わらず、高齢者医療に関しても。慢性的なものほど、生活をベースにした支援が要求されるし、同じ「病名」でも置かれている状況でやるべきことが変わってくるから。病気を中心にして考えるよりも、その人を中心にして考えた方がアウトカムが上がりやすいこともあるだろう。


「病気を診ずして病人を診よ」という言葉は、医療倫理の文脈で、道徳的に語られることが多いが、むしろ、急性期と慢性期の診方のシステマティックな方法論的な違いであるように思える。もしこれがシステマティックな違いであれば、医療保険システム自体も、その違いを反映した方が、アウトカムや費用対効果が上がるかもしれない。(具体的には、限られた予算の中であれば、高価な薬に費やすよりも、別なセラピーやケアに傾斜をかけた方が良い、といった仮想的なケースなど)これは別に新しい考え方ではなく、介護保険で既に行われている考え方だ。


保険制度と背景にある考え方をシェーマにしてみると、

Process-centric: 薬や施術ひとつひとつに対しての保険点数(外来の標準)
Disease-centric (category-centric): DPCのような病気に対しての点数体系(入院で多い)
Human-centric: 介護保険の点数体系


Human-centricと表現すると、過剰に道徳的な響きを持ってしまうが、背景にあるのは、方法論的な違いだ。要は、慢性的なものになるほど、個人差が大きく、また生活に根ざした支援でなければ意味が薄いけど、それを別な思想背景のシステムで支援しても、かえって問題を悪化させかねないということ。例えば、精神医療における過剰投薬といった。あるいは、マクロ的にも、高齢化とともに増大著しい医療費と財政負担に対するひとつの解としても、慢性的な状態の医療支援の形として、Human-centricな、介護保険ライクな医療保険システムは有効かもしれない。もちろん、コンセプトから現実の制度に落とし込むのは大いに大きな間隙があるわけだが。

精神疾患ゲノム研究 2014年7月現在

テッド・スタンレーさんという方がブロード研究所(MIT x ハーバード)へ、精神疾患研究目的に650億円相当の寄付したことが、神経科学・ゲノム界隈で話題になっている。

Spark for a Stagnant Search: A $650 Million Donation for Psychiatric Research


ここ数年自閉症研究が盛んになったのも、サイモンさんというヘッジファンドの億万長者(息子さんが自閉症)が、自閉症研究に200億円ファンディングしたことから始まった。日本政府の国策としてのiPS研究が300億/10年と考えると、どちらも破格の金額。精神疾患研究へのさらなる点火になりそうだ。ブロード研究所はとりわけゲノム研究を中心にしているので、今回もまずはゲノム周りからだろう。


ブロード研究所もこれを受けて、2014年7月に発表したNatureの統合失調症GWAS結果を、熱心にアピールしている。おそらく、Natureでの発表とスタンレーさんのファンディングのアナウンスは協調していると思われる。というのも、Nature誌自身、2010年代は精神疾患研究だ!というエディトリアルを2010年に書いて、精神疾患研究をプッシュしてるので。
the wealth of nations, the health of nations, the mental health of nations - ideomics
A decade for psychiatric disorders


実際、2014年に入ってからNature Articleに、統合失調症ゲノム研究が3-4本と、一見バブル業界に見えなくもない高まりを見せているが、このあたりはファンディングからテクノロジー、サイエンス(論文書き)、メディア(雑誌)と一連の戦略的な流れがある。いうなれば『プロジェクト・ジャパン』でいうようなプロジェクト性*1。あるいは、自然科学における"理念"の位置づけを示すような流れ。理念から大戦略、実際の研究、そして成果へと。学位云々と次元の違うところでハードルがどんどん上がってる。(精神疾患研究の重要性は上記参照。その中でゲノム研究が最近中心にある理由は長くなるので割愛*2


Natureというメディアからの視点では、2010年にエディトリアルを打ち上げて、2014年という5年目にプッシュした業界がある程度のマイルストーン的な達成と資金調達をし、あと5年でさらなる勝負になる。大きなところでは、ひとつはgenotype firstなヒト研究(後述)。もうひとつはマウスなどのモデル動物での遺伝学x神経科学研究(回路レベルでのゲノムエンジニアリングなど解像度の高いものも含め*3)といったところか。ファッション業界におけるVOGUEもそうだと聞くが、業界の方向性を決めるようなアジェンダ・セッティングをしている。研究者レベルでは、これから数年に出るであろう成果を、どう自分の求める方向に発展的に繋げていくかが、中期的な課題になりそうだ。


genotype first/genetics firstというのは、網羅的なゲノムシークエンス→genotypeでカテゴライズ→再度表現形解析(phenotyping > genotyping > genotype category > re-phenotyping )という流れ。genotypeとphenotypeの関連をよりクリアに、一対一対応に近いレベルで見ようという試み。
Simons Variation in Individuals Project (Simons VIP): A Genetics-First Approach to Studying Autism Spectrum and Related Neurodevelopmental Disorders
に詳しい。タイトル通り先のサイモンさんの財団の自閉症研究周りが述べている発想で、次世代シークエンサーという最近のテクノロジーによって(SNP以外が)現実的になった。genotype firstでカテゴライズされたヒトたちの末梢組織→(iPS経由)→神経細胞があれば、分子レベルでのre-phenotypingも可能だ。


この記事も
7月22日:論文掲載の易しさからトレンドを見る(7月17日号Cell誌掲載論文) | AASJホームページ
も鋭い洞察。洞察の通り、Bernier et al. (2014)は今後のトレンドを指し示す論文だろう。巨額の予算で大規模シークエンスした次のステップを示している。精神疾患はgenotypeで分類できるんじゃないか?というのがNature誌の最近のスタンスでもある(異論の余地はもちろんあるが)。
Mental health: On the spectrum


もっと言うと、サイモン財団のSimons Variation in Individuals Projectという名前がより思想的・理念的なものを示している。「疾患」とか「病気」といった概念を使っていない。あくまでもindividualごとの「バリエーション」として捉えている。これも特筆すべき点。


個人的にも、病気という概念はそろそろ捨てても良いんじゃないかという思いが日々高まるが、これは障害者を障がい者と書きましょうといった道徳的なニュアンスではなく、単に病気という概念の解像度が粗すぎて、30万画素のデジカメ写真を自慢されているような不快感があるから。XXX病とひとまとめにするのって、ざっくりし過ぎてて、ファミコン時代のドット絵みたいな粗さがある。もちろん中には名作もある。けど、個体レベルから分子に至る解像度を上げられれば、そちらの方が良い。
生きる術としてのphysical arts - ideomics
そして個体レベルの記述でも、病気という概念よりも、適応的adaptive・非適応的maladaptiveという概念の方が記述として妥当だろう。これらは一見医学研究に見えるが、語弊を恐れず言えば、(病気という概念に依らない)一種の脱医学研究とも言えるかもしれない。

*1:『プロジェクト・ジャパン - メタボリズムは語る』 レム コールハース (著), ハンス ウルリッヒ オブリスト (著) - ideomics

*2:ざっくり言うと、精神疾患は遺伝性が高いとされている前提と、ゲノム情報を網羅的に解析する革新的な技術(次世代シークエンサー)が登場したため

*3:ちなみに、CRISPRのFeng ZhangもBroad

「解離」とはself-therapy(self-medication)の一種なのか

解離という現象がある。自分でも1回ほど体験し、1回ほど起こしかけたことがあり、その体験がなかなかインプレッシブだった。解離することである種すっきりしたというか、PCに例えると、強制終了みたいな感じ。見た目は、睡眠に似てるけど、睡眠は正常なシャットダウンとすると、解離性健忘は強制終了みたいな。負荷が大きくなるとPCもフリーズするが、人間もフリーズ→強制終了となるのかも。というか、フリーズしたのに強制終了できないと、むしろかえって、やばいことになるのかもしれない。ある種の急速睡眠と言ってもよいかもしれない。


というか、考えてみると、解離の"症状"*1って、ベンゾジアゼピン抗不安薬、いわゆる俗に言う安定剤のメイン)の作用に似ている。すなわち、健忘、抗不安、鎮静(睡眠)、脱力。解離状態で、人格が変わったようになる人もいるけど*2、これもベンゾジアゼピンで起こりうる。上のリストに加えると、脱抑制の作用。ちなみに、ベンゾジアゼピンというと難しく感じるかもしれないが、日常生活で言うと、アルコール(飲酒)が作用として近い(もちろん別物なので、代替としての使用は危険で基本的に禁忌)。アルコールにも↑の作用がある。


とすると、解離というのは、一種のセルフ・メディケーションなのかもしれない。言うなれば、セルフ・ベンゾジアゼピン。例えば、生体の正常なメカニズムとして、ストレス→GABA受容体の働きUP→セルフ・メディケーション的な効用(ある種のネガティブフィードバック的なスタビライザーとして)、が内在しているとして、それが高負荷で暴走してしまうのかも。つまり、高ストレス→GABA受容体の過活動→抗不安や鎮静が過剰になり健忘・脱抑制が前面に出る、といったように。


ストレスに対する"内因性"の対処のメカニズムを、GABA受容体からのアプローチで解明してみるのは興味深いかもしれない。もちろん、仮にこれを前提として詰めるとしたら、回路の考察が必要不可欠になるけど。とはいえ、あくまでも仮設的な仮説の仮説ですし、エビデンスとは真逆の与太話です。信憑性は極めて低いので、よい子は絶対に真に受けないでください。

*1:これを「症状」として捉えるかは異論があるところだろう。ニュートラルに言えば、現象か。

*2:ちなみに、現在「多重人格」という概念は疑問視もされているようだ。Debbie Nathan, Sybil Exposed: 原資料をもとに、多重人格シビルのウソを徹底的に暴いた本。でも批判的ながら同情的でフェアな視点のため、非常に感動的で悲しい本になっている。 - 山形浩生 の「経済のトリセツ」に詳しい。

メンタルヘルスと産業医と経営学


都市と農業とメンタルヘルス - ideomics


最近都市生活、中でも就労環境によるメンタルヘルスへの影響にちょっと興味がある。例えば、ビル内の勤務が続くことによって、日光による生物時計の調整が異常を来たし、メンタルヘルスに影響を与えるとすると、朝の日光照射を十分することによって、何かしら良い効果が望めないか。


生産性がはっきりとしやすい職種で、朝日光リフレッシュ群と、通常リフレッシュ群と、コントロール群に分けて、三ヶ月くらいRCT(Randomized Controlled Trial)したら、生産性の差が出てきたりするだろうか。睡眠状況や主観的なストレス度合いといったメンタルヘルス系の指標を二次的なアウトカムとして。一旦「病気モデル」から離れて、一般人口をターゲットにしてみる*1。もし有用性があるようなら、職場のビルの屋上に日光サロンなんか設けてみてもいいのかもしれない。楽しそうだしね。てか、効果なくても設けておくれ。


まったく産業医としての経験もない上に、産業医学をほとんど知らないので、あくまでも想像でしかないけれど、産業衛生を考える際に、何かしらのエビデンスを作る際には、もしかしたらヘルス系の指標は「二次的なアウトカム」として、生産性とか経営学的な指標を「一次的なアウトカム」にした方が良いのかもしれないと思ったりもする*2。というのも、最終的には経営者に響かないと、実行まで移せないだろうから。多くの経営者が、健康指標をまったく気にしないということはないだろうけど、やはり最初に気になるのは、業績につながるような面だろう。そこからアピールできた方が、結果的には早道になるような気がする(あくまでも気がするだけ)。


例えば、
Randomized Government Safety Inspections Reduce Worker Injuries with No Detectable Job Loss
は政府による安全管理監査の有用性を示すと同時に、生産性などに悪影響がないこともデータにしている。このあたりの「業績面」への配慮が、産業衛生のエビデンスを作る際に必要なプロトコルなのかもしれない*3


更に踏み込むなら、こういうエビデンスも、Academy of Management Journal (AMJ)とまではいかなくても、経営学の権威あるジャーナルをターゲットに狙ってみるというのもありなのかもしれない。生産性をprimary outcomeにして、健康系の指標をsecondary outcomeにする。経営者に響くような情報のデリバリーで*4


というのも、自分の中で勝手に、

経済学:経営学≒理論物理学:生物学

といったアナロジーで捉えていて、(迷惑千万だろうが)経営学になんとなくシンパシーを感じているところもあるもので。20世紀の経済学が、理論的な形の洗練を重視しているあたり、理論物理学のテイストと重なりつつ、ちょい前からの経営学流行りが、20世紀中盤にあった理論物理学⇒生物学(かつその中で、観察研究から実験研究へ)という学問上の主流の変遷と重なるように感じる部分もある。という意味で、経営学の変遷は、社会的重要性だけでなく、個人的な興味もある。

*1:「文化vs医療」@ヘルスケア、あるいは"公衆"衛生の意味 - ideomics参照

*2:もう既にそういうコンセンサス?・・・よく知らなくてすいません。教えて頂けると助かります

*3:もう既にそういうコンセンサス?・・・よく知らなくてすいません。教えて頂けると助かります

*4:これも、もう既にそういうコンセンサス?・・・よく知らなくてすいません。こちらも教えて頂けると助かります

都市と農業とメンタルヘルス

とある先生から、畑仕事がうつ病復帰のリワークに良いと聞いた。特に、都市部でうつ状態になった人の休職中とかにリワークとして良いらしい。リワークと言っても、都市部のいかにもデスクワーク的なリワークでは効果なくても、畑仕事が良かったりするとか。「うまくいかないとき、人に対して恨みを持つことは多いけど、自然に対してはそういう恨みは持ちにくいんですよね。なんなんでしょうね。生き物としてそうできているんですかね。」という趣旨の話が興味深かった。「銀座で石につまづけば、誰がこんな石を置いたんだ!と怒るけど、山登りで石につまづいても怒りは起きない」という養老孟司先生の言葉を思い出しつつ。


復職支援プログラム(外来作業療法) : メンタルケアユニット(精神科) : 北原リハビリテーション病院


確かに、農業してる人はあまりメンタルヘルスに支障ないことが多いイメージだし、そういった話もちらほら聞く*1。雑感レベルだけど、畑仕事の効果や、農業とメンタルヘルスの関係は、エビデンスにできれば結構新しいかも。



実際、都市とメンタルヘルスの関係は若干注目されていて、

http://www.nature.com/news/stress-and-the-city-urban-decay-1.11556

でもトピックとして取り上げられている。統合失調症などの精神疾患が都市で多いというのは、疫学でよく出てくるけど、

http://www.nature.com/nature/journal/v474/n7352/full/nature10190.html

でも、都会で生活している人や都会育ちの人が、田舎で生活していたり育ったりした人よりも、ストレスを受けやすいことが示唆されている。ひとくちに都市と言っても、コンクリートのような物理的な環境なのか、人の過密性なのか、隣人との関係の希薄さなのか、自然の欠如なのか、色々因子がありうる。この研究では、都会というのを人口密度で捉えているけれど。


あるいは都市の光。生物時計を狂わせてしまうのはある程度間違いないとして、メンタルヘルスにもそれなりに大きい影響を与えているかもしれない。逆に昼の日光をシャットアウトするような生活も然り。双極性障害をはじめ、生物時計が精神障害に関与しているという話があるけど、このあたりを経由して、都市生活がメンタルヘルスに影響をしているかもしれない。


メンタルヘルスだけでなく、アレルギー・喘息・アトピーなどの免疫関係と都市生活の関係も気になる。衛生仮説といって、抗菌的な成育環境がアレルギー・喘息・アトピーなんかを誘発しやすくしているという仮説がある。ちゃんと示されてはいないけど、支持するような文献は結構あるみたいで、根強く残っている仮説だ*2。なんの確証もないけど、子供が芝生で草を食べたりするのを見てると、ある程度こういう「食事」も成長プロセスに組み込まれているのかなと思ったりもしてしまう*3。ともあれ、はっきりとした話がわかって対策が出てくれば、多くの人に喜ばれるだろう。


まだまだ確定的なことは言えないけど、世界的にもこれから都市化がどんどん進んでいく中で、公害みたいなわかりやすいケース*4以外のヘルスケア的な文脈で、都市化の「副作用」が調べられていくのかもしれない。


安直だが、やっぱり木や緑ってのは重要だと最近はしみじみと感じる。箱根行って緑に囲まれた生活をしばし送った時の爽快感は(プラセボ的かもしれないとはいえ)なかなかのものだったし。

知者楽水、仁者楽山 - 箱根小旅行 - ideomics



「ヒトにとって『経済』というのは『戦わなきゃいけない相手』なのかもしれない」【五十嵐圭日子東大准教授インタビュー・後編】 - ザ・ジセダイ教官 知は最高学府にある | ジセダイ

大学院生の頃、アメリカに留学したんですね。そのときにお世話になってたスウェーデン人のおじいちゃん先生が「おまえは、人間が木から離れて生きられると思うか?」って聞いてきたんです。・・・スウェーデンの人っていうのは、ただ森の中の別荘に行くだけなんですよ。ただ行って、街にいるときと同じことをするんです。普通にご飯食べたりとか。彼らが言うには、ひと月に1回は森の空気を吸わないと人間はダメになるぞって。すごいですよね。

という一節に共感してしまった。無意識と言ってしまうと反証不可能な形の説になりがちだけど、やっぱり意識していないレベルで必要としているものってあると思うしね。


*1:あくまでも雑感レベル

*2:ちなみに、乳酸菌がアトピー予防効果があるって話:(Probiotics in primary prevention of atopic disease: a randomised placebo-controlled trial : The Lancet)は本当なのだろうか

*3:喘息については気道のmicrobiomeの話を聞いたが、アトピーなどとmicrobiomeとの関連はどうなっているのだろうか

*4:とはいえ、これすらも認められるまでかなりの苦難があったと聞くが

「文化vs医療」@ヘルスケア、あるいは"公衆"衛生の意味

日本の平均寿命が高いと賞賛されているけれど、医療水準だけでなく、食文化から、行政による衛生管理、国民皆保険という社会制度によるものが大きいと言われていたりします。つまり、医療に限らない広い意味での「文化的現象」である、と。


しかし一方で、ヘルスケアを語る時の語り口の多くは、やはり医療的アプローチ、すなわち「病気」をどうこうするという形になりがち。わかりやすく効果的なので、まったく否定すべきものではないのですが、ある意味"ストレート過ぎる"フレームワークでもあります。この「病気」とか「診断」とか「治療」という考え方は。*1


日頃から思うことですが、「病院」って施設自体が、何というか基本的に楽しくないし、「病気」という言葉自体が、ネガティブなトーンを持っていることはどうしようもないんですね。もちろん、小児科を中心として、病院を楽しく元気な感じでプロデュースされている空間は多多あるし、多大な敬意を払っておりますが、やはり根底にある「楽しくなさ」はどうしようもない。これは顧客のお子さんの泣き声を聞けば明瞭です。



Let's Talk … Child Careより)


じゃあヘルスケアをもっと楽しくできないか、ヘルスケアを病気というマイナスではなく、もっとプラスの値で捉えられないか、というのは今後どんどん重要になるんじゃないかという論点だと思っていて*2、特に「医療モデル」(病気やら診断やら治療というフレームワークの総体)から一旦detachした上での"ヘルスケア"を構想できないか、というのは気になっております。ヘルスケア=健康増進とすると、従来だと医療モデル(病気モデル)を前提にした予防的な考え方で、経済的インセンティブや、病気になる怖さの回避といったあまり内的には楽しくない感じが多いイメージなので。



Nike社ウェブサイトより)


ひとつの雛形というかロールモデルになりそうなのは、NIKE社がやっているRun Together*3みたいなイベントやFUELといったプロダクトによる運動の娯楽化。運動文化に対するNIKEの貢献は少なくないと思いますが、特に興味深いのは、「娯楽化」という観点かと思います。スポーツ自体に内在する楽しさを中心としつつ、そこにうまく色々な人を巻き込む仕掛け。内的な楽しさを大事にしながら、その周辺の「娯楽化」をきっちりやる。いわゆるゲーミフィケーションというのは一つの王道でしょうか。


「ゲームニクスとは何か」サイトウ・アキヒロ - ideomics

世間的には悪者にされがちなソーシャルゲームも何らかのポテンシャルを持っているのかもしれません。FUEL的なガジェットの広がりも期待できそうですね。


アプリケーションレベルで健康増進的なエンターテイメントが始まり、それが習慣化されると、社会のOSに組み込まれていく。狭義の文化を、「楽しいもの」として、文化人類学とか社会学で言うような意味での広義の文化とは違う意味で使うと、アプリケーションレベルであった狭義の文化<楽しいもの>が広まっていくにつれ、徐々に広義の文化というOSに落とし込まれていく。ヘルスケアとか国民の健康なるものを見るとき、健康増進作用が、狭義・広義の文化というアプリケーション・OSにどの程度組み込まれているのかを見る、というのもありな気がします。


<ヘルスケア>=<医療>+<公衆衛生>

と分解してみる。公衆衛生(public health)という学問は、通常、医療の俯瞰的な調査や疫学といった扱われ方をしますが、本当に公衆publicを思うなら、つまり、病気というごく一部の人ではない本当のpublicに対してアプローチするなら、一旦「病気」「診断→治療」というフレームワークで考え「ない」ことが大事なのかもしれません。ほとんどの人が、ある特定の病気にひっかかるわけではないのですから。そして、これは非常に重要な点でありながら極めて看過されやすいのですが、医療モデルにおける慢性疾患に関しては、医療関係者からは「病人」であっても、ほとんどの人にとって自分は主観的には一個の「通常の」人間であり、「(異常としての)病人」とは認識され「ない」のですから。この意味では、公衆衛生的なアプローチは、医療モデルと一種の緊張関係にもありうる。


むしろ、publicを動かせる力、すなわち「楽しいもの」「わくわくるするもの」を考えること。医療モデルの病気的フレームワークを置いておいて、別様に健康増進ベクトルに動かす方向で「楽しいもの」を考えることが大事なのかもしれません*4。その意味では、公衆衛生というちょっと前世紀的で官僚的な響きも、もっとファッション的というかフジテレビ的な方向にニュアンスを変えていった方が良いのかしら。



http://reallifenewalbany.com/real-life-nursery/より)


もちろん綺麗に二分されるわけはなく、漢方とかはその中間に近いのでしょうか。健康に対する漢方のフレームワークは、「病気」モデルに近いですが、独特な切り口で、それはそれで興味深い。繰り返すように、vsと言っても対立するものではないし、当然医学や科学といった蓄積を無視して良いわけではありません。ともあれ、今のヘルスケアは「医療化」されすぎているという感触はありますし*5、もうちょっと別様な「ヘルスケア」があるんじゃないかと思ったりはするわけです。例えば、栄養学のルネサンス?"Architecture without architects."ならぬ"Heathcare without doctors"。そんなイメージです。


イリイチ『脱病院社会』

対立を先鋭化させすぎるとこうなるのかもしれないけど、両立を前提にするならば、聴くべき論点ではあるかもしれない。残念ながら、精神科領域は脱病院という運動が、医療の否定に近くなってしまい、却って不幸な結果を生んでしまった経緯があります。が、あくまでも両輪のうちの一つという捉え方であれば、有用な視点なのであろう、と。この本のトーンは、まったく楽しさの対極にありますけれど。

*1:先日ヘルスケア関係の楽しい会合がありましたが、そこにある議論で大変面白く聞いていたのが、「文化vs医療」という対立項。言うまでもなく、医療も文化の一つであり、この"vs"はあくまでも、わかりやすさのための表現です。

*2:フィットネスクラブとは医療機関である - ideomics

*3:http://runtogether.jp/index.html

*4:下水道整備や感染源対策など通常の公衆衛生に加えてという意味で

*5:まあ一部の代替医療はきちっと「医療化」すべきと思いますが

エピジェネティクス

ちょっと前にヤフーニュースでも取り上げられた「うつ病のバイオマーカー」。BDNFといううつ病に関わっていると考えられる遺伝子の調節領域のDNAメチル化がうつ病のバイオマーカーになるかもしれないというお話。

原論文はこれ↓
PLOS ONE: DNA Methylation Profiles of the Brain-Derived Neurotrophic Factor (BDNF) Gene as a Potent Diagnostic Biomarker in Major Depression*1


           **

今いる研究室も精神疾患におけるエピジェネティクスを扱っている。精神医学に限らず、ガンや再生医療の文脈で今エピジェネティクス関係の報告が盛んだ。というか、基本的にはガンや再生医療(iPS細胞など)の方で盛ん。


エピジェネティクスに関する基礎的な知識はウィキペディア
エピジェネティクス - Wikipedia
を参照していただくとして、このエピジェネティクスなる概念が生物学に与えうるインパクトを考えたい。バイオマーカーとしてだけではなく、より中心的なメカニズムの可能性として。


いずれも仮説レベルだが、2つの点で注目に値するかと考えている。

①個体発生・発達におけるランダムネス

古来から氏か育ちかという論争は長く、英語ではnature or nurture?と言われる。今の生物学の言葉にするならば、遺伝子か環境か?ということになるが、いずれも個体レベルでは、何らかの原因→結果という機序を想定している。因果律を前提にしている。


ここでエピジェネティクスが確率論的な影響という第3の因子として登場する可能性がある(遺伝=第1の因子、環境=第2の因子として)。というのも、DNAのメチル化が一定の割合でランダムに起こっている可能性があり、もしそうだとすると、遺伝子の調節がある種偶然や確率にゆだねられることになる。nature or nurtureを超えて、第3の因子としてランダムなエピゲノム変化というのがありうるかもしれない*2。例えば、病気になるのも、すべて決定論的に決まるわけではなく、くじ引き的な要素がある、と。


A. Petronisの"Epigenetics as a unifying principle in the aetiology of complex traits and diseases"*3では、一卵性双生児(遺伝子は基本的にほぼ一緒)が、別々な病気になったり性格になる背景として、環境因以外に、この「くじ引き」的なランダムネスを挙げている。DNAのメチル化がある程度ランダムに起こるため、たまたま異常なメチル化が蓄積した方は病気になるが、そうでない方は病気にならないといった具合に。


②柔らかな遺伝性 soft inheritance

現在議論が紛糾している点だけど、エピジェネティックな変化が、果たして子孫に伝達されるのかという話し。少なくとも細胞分裂の時はかなりの確率で伝達されるので、あり得そうではある。エピゲノム変化は、生きている間にそれなりに起こるし、環境による変化もあるので、もしエピゲノムが次世代に伝達されるとしたら、今生きている世代の行動が次世代の行動に生物学的な意味で影響する。


ラマルクの獲得形質の遺伝は、現在の生物の教科書では否定されているが、もしかしたら、ラマルク的な獲得形質の遺伝*4は部分的にが成り立っているかもしれない。だとすると、我々の喫煙や飲食、ストレスといったものが次世代に物質的なレベルで影響を与えるという、なかなか恐ろしいシナリオ。少なくとも、一部の環境因子でエピゲノムが変化することはほぼ共通見解なので、これが子孫に伝わるかどうか。


いずれも仮説レベルの話であり、実証はされていない。とはいえ、現在の生物学のパラダイムに疑問を投げかける。特にニューロサイエンス関係では、脳細胞での①ランダムネスがかなり重要な働きをしている可能性がある。疾患や性格の多様性は、エピゲノムの「くじ引き」で決まっているかもしれない。

*1:興味深い話であるが、信頼性については今後検証必要であろう

*2:もちろん遺伝子の突然変異自体もランダムと言えるので、ランダムネス自体は新しくない。別な階層のランダムネスとして。

*3:http://www.nature.com/nature/journal/v465/n7299/full/nature09230.html

*4:ジャン=バティスト・ラマルク - Wikipedia