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オブジェクト思考ブロギング

悲劇の誕生

 

「お客様は神様です。」 - ideomics 

後の悲劇作家は、不死の神々を二階に、死すべき人々を一階に招いた。悲劇には、二つの観客がいる。悲劇は、死者を舞台に招き、市民(ポリーテース)も舞台に招く。悲劇は敗者を讃える。死に逝った者を称える。勝ち馬にのることが賢く生きることになりがちな集団生活の中に、敗者の場所を作りだす。それは現世でもなく、来世でもない。それは、一階たる地でもなく、二階たる天でもなく、中二階にある。

 

市民たちがコロスとなるとき、彼らは地たる一階から、この中二階に上がる。悲劇によって死者たちが呼ばれるとき、彼らは天たる二階から、この中二階に降りる。舞台はいつも中二階にある。舞台において、人々は生きながら死に、死にながら生きる。

 

半神たちは、舞台に呼ばれて歌い踊り出す。再び舞踏の武闘を繰り返す。『イーリアス』では、神々にしか許されなかった観劇の感激が、市民たちにも許された。神々に納められた舞踏の武闘が市民たちのものにもなり、コロスの市民たちは、半神たちの武闘の舞踏の間に入り、神のごとき言霊になる。

 

舞踏の武闘の栄誉の冠は合唱隊(コロス、コーラス)の市民たちが受ける。脚本家でも役者でもない*1。 一階たる地から、中二階の舞台に上がる。 舞台の上の言葉となり、言葉により作られた舞台となる。この世の体から抜け出し、言葉の言霊となり、半神のごとき魂となり、半身を黄泉に漬ける。半身を半神に浸すとき、体から出た声の響きは言霊となり、死者とともにある。コロスの声は肚から出て、肺からの息 (psyche) は、翼ある言葉となる。内臓から押し出された音楽は魂 (psyche) となって天上に向かう。悲劇の誕生である。

 

「音楽は、他のすべての芸術のように現象の模写ではなくて、直接に意志そのものの模写であり、したがって世界のすべての形而下的なものに対しては形而上的なものを、すべての現象に対しては物それ自体を表現するからである、と彼は言っている。(シェーペンハウアー『意志と表象としての世界』第一編P310)これはあらゆる美学のもっとも重要な認識であり、かなりまじめな意味で、美学はこの認識とともにはじめて始まるのである。」(秋山訳『悲劇の誕生』P148)

 

猿のごとき動物が、神のごとき言葉を得る。翼ある言葉は、地から天に昇っていく。音楽に乗って。弁論術(レートリケー)も、悲劇の子どもであった。弁証法(ディアレクティケー)という法廷闘争(弁論術)の子どもも、また悲劇たちの子どもであった。

 

「これまでの生涯において、しばしば同じ夢が僕に訪れたのだが、それは、その時々に違った姿をしてはいたが、いつも同じことを言うのだった。『ソクラテス、ムーシケーmousikeを作り(なし)、それを業とせよ』。」(岩田訳『パイドン』60D一部改)

 

「なぜなら、およそどのような場合にも、国家社会の最も重要な習わしや法にまで影響を与えることなしには、音楽・文芸の諸形式を変え動かすことはできないのだから。これはダモンも言っていることだし、ぼくもそう信じている。」(藤沢訳『国家(ポリテイア)』424C)

 

PCのキーボードも、本当はピアノのキーボードとして弾かれたい。
マックのキーボードも、本当はピアノのキーボードとして弾かれたい。

*1:「一対一の対話というのは、実は言葉の交換ではないんです。・・・一対一の言葉というのは結果的にお互いが了解し合うなり、行動を共にする結果を招けばそれでいいんです。・・・そういう一対一の伝達がほんとうの言葉のやりとりになるためには、第三者の入った鼎話のかたちになる必要がある。要するに傍観者が一人いて、その傍観者に理解できる言葉で二人が話し合って、初めて言葉が不可欠になるわけですね。」(山崎正和『日本語の21世紀のために』)

「お客様は神様です。」

μῆνιν ἄειδε θεὰ Πηληϊάδεω Ἀχιλῆος
怒りを歌え、女神よ、ペレウスの子アキレウス

  

イーリアス』の神々たちは、観客席に座っている。死すべき人々のサポーターとなり、舞台で戦うアスリートたちに茶々を入れる。不死の神々にとって、これは遊戯である。死すべき人々にとって、これは真剣である。死すべき人々は血を流し、魂が飛ぶ。不死の観客は、死すべきアスリートたちを高みから見下ろす。不死の神々とは、この世の舞台の観客であった。「お客様は神様です。」と、ある演歌歌手が言ったとき、彼は、『イーリアス』のことを言っていたのではないだろうか。彼は歌が奉納であり、神様が観客であることを誰よりも知っていたに違いない。

 

アキレウスは死に行く運命と知りながら闘いに向かった。彼はアスリート (athletes) だった。彼は観客ではなかった。太った腹を抱えながらビールとポップコーンを頬張る観客などではなかった。彼はやがて足に矢が刺さり死ぬことになったが、その魂は歌われることで、不死のごとき命となった。文字通りの半神(heros)として、死すべき人と不死の神の間で生きることになった。こうして彼も後に観客席に落ち着くことになった。

 

ヘクトルもまたアスリート (athletes) だった。彼もまた観客などではなかった。太った腹を抱えながらビールとポップコーンを頬張る観客などではなかった。死にゆく敗者も、ムーサに歌われ半神のごとき命を得る。こうして彼もまたようやく観客席に席を得ることになる。ムーサは敗者の魂も邪険にすることはない。魂を歌え、女神よ、武闘の舞踏に敗れて死にゆく者の。

 

ギリシャ人たちがオリンピアに集まる時、彼らは最古の政を神々に納めている。神々が観客となり、『イーリアス』を模した武闘の舞踏で、正統な正闘を踊り歌う。イーリオスの地では血の武闘しか知らなかった死すべき人々も、やがてオリンピアの地で舞踏の武闘を知ることになった。ゼウスは裁きの神であるはずだが、『イーリアス』では直に裁ききれず、他の観客たちの茶々や嘆願も捌ききれなかった。後の舞台において、ruleとは支配の意味であって、審判(ヘラノディカイ)とはその名の通りに裁きを行う*1。祭りごとは政となり、もっとも形式化され、そしてもっとも自由な踊りが、後にテニスとフットボールになった。法廷の誕生である。

 

「ディカイオンという語――裁定を律する原理である「正しい」要因――の登場は、宣誓によって不偏不党を明言し、裁判の展開をもはやアゴーン、つまり両当事者の闘技的対決という形式に委ねない裁判官の登場と対になっています。・・・裁判官と両当事者という三項構造が出現することになるからです。そして裁判官と両当事者のあいだで展開される場面は新しい領域を引き合いに出す。ホメロスには考えもつかないことでした。この領域がディカイオンの領域なのです。」(フーコー『悪をなし真実を言う ルーヴァン講義録1981』)

 

規則が支配し、もっとも自由な舞踏の武闘には、作家という家の主人はいない。裁きを行う審判がいる。家を作る作家などというものはいない。政を行うとは、祭り事を行うことであり、舞台で踊り歌い、正しく闘うことである。本当の戯曲には主人たる作家などいないのだ。

 

政とは何か?
舞台で正しく踊り歌うことにある。*2

 

*1:古代ギリシャでは、オリンピックを基準に年が数えられたらしい。年の数え方は、その土地の価値の布置を示す。オリンピックとは、おそらくヘレネス国際法であった。法と裁きを重く見る人々の神聖な法であったのだろう。規則 (rule) による支配 (rule) と、中立で神聖な審判者による裁き。理屈だけでは素直に納得できなくても、身体による武闘な舞踏としては、その血が知となり、身体に染み込む。オリンピックとは、おそらく最古の国際法なのだろう。

*2:舞台は、人に見られることを前提にしている。夜の営みや財布の中身は、人に見られないことを前提にしている。公開か密室か。ポリスとは公開の形式であり、すなわち公開性による公開政。オイコスとは密室の形式であり、すなわち秘密の性による秘密制。屋根と扉で囲まれた舞台は、本当は舞台とは言えない。

祭りの後の後の祭り

司法が立法に先立つのはなぜか?
なぜなら、人は後知恵の動物であるから。
先の知恵は、不死の神々のものであり、
死すべき人は、後の知恵があるだけでも、
よしとしなくてはならない。
なぜなら、ヒトであるだけでは、
その後の知恵さえもないのだから。

 

エピメテウスにもたらされたヒトの力は、
祭りの後の知恵として、政をはじめて人となる。
立法の前に司法があり、裁きは常に後の知恵としてくだされる。
プロメテウスが、かろうじてもたらした火の技術は、
科学ともなり、先の知恵ともなったが、
プロメテウスの伝えきれなかったものが、天上に多く残されている。

 

ゼウスが裁きを担っている一方で、
ヘーラーは結婚を担っている。
この二神が、オリュンポスの中心の夫婦であるということは、
裁きと結婚が、何らかの形で並んでいるということだろう。
その答えを、人が知るにはまだ早いが、
ただ『ラス・メニーナス』の鏡だけが、その先の答えを忍ばせている。

 

先の知恵もつプロメーテウスによれば、
アイギスもつゼウスもまた、その子どもに地位を奪いとられるという。
彼は裁きを知恵をもって、父なるクロノスの暴力にうちかったが、
彼もまた専横とは無関係ではなかった。
アイギスもつゼウスの子である、梟の目のアテーナーは、
イーリアス』では、父に従いおとなしくもしていたが、
その後に何を行ったのか。
より純粋な裁きは誰のもとにあるのか。
ギリシャ人たちは、その先の口をつぐんでいる。

homo vs sapiens

新たな人の姿を、ホモデウスとある人は言う。
しかし、神とともに生きる人、あるいは神の似姿としての人とは、
古代や中世に生きる人たちのことではなかっただろうか。
後に人間たちが、
鑑となる神の似姿の先に、
鏡にある自分たちの姿を認めたとき、
彼らは神ならぬ人となり、
紙とともに生きることを選んだ。
彼らが、humanitiesと複数形を綴るとき、
一つではなく二人三人…の姿をそこに見ている。
鑑の先の鏡の中で、彼らの姿は戯曲となる。

 

さらに後に人間たちが、
鏡にある自分たちの姿の中に、
毛に血に汁に涎に痰に尿に便を認めたとき、
彼らは自分たちの中に、
まぎれもない動物の姿を認めることになった。
彼らが、自らをHomo sapiensと名乗るとき、
彼らは自らを動物の一種と位置付けている。

 

アリストテレスは、『政治学(Τα Πολιτικά)』において、
ときおり人(ἄνθρωπος)を指して、動物(ζῷον)と呼ぶ。
正義を主としながらも、ポリスとは動物たちの群れでもある。
彼の動物論は、アカデメイアを去ってからなされたものらしい。
アリストクレスの天上論から地に降り立ったとき、
彼が自らの土地の地 (ground) に見出し、
彼が自らの土地の地 (ground) としたのは、血に溢れる動物たちだった。

 

朝起きて、人はトイレに行き鏡を見る。
なんとさえない生き物が鏡の中にいるものか。
なんと醜い姿が鏡の中にいるものか。
排泄に、鼻の形も、肌の張りも、脂肪の塊も、
ああ天上のものとはほど遠い。

 

"la mort de l’homme"
ある外科医の息子のかけ声が、
サピエンスを覆うhumanities の皮膚にメスを入れる
隠れていたsapiensが、homo=hommeの殻を破る。
ホモの皮を被ったサピエンスが、その皮を破り外へ出る。
神のごときへロスの末裔はやがて戯曲となり、
猿のごときHomo sapiensの姿を鏡の中に認めることになった。
自らたちの姿を鏡に映してみると、そこには猿の姿があった。

 

オリンピア

「万人の万人に対する闘争」とはなんと苛烈な世界なことか、と人は言う。
半分正しく半分間違っている。
闘争の対岸に見えるものは何か?
平和ではない。支配 (domination) がある。
少数による多数の支配、あるいは多数による少数の支配。
その世界では闘争は許されず、支配と従属がある。
支配の家のもとに保護があり、
平和とは、支配の僕のことであった。
その家の中もまた苛烈であり、
ただその苛烈さが見えないだけだったのだ。
彼女の姿は優美で柔和だが、彼女は家 (domus) の主人に囲われていたのだ。

 

人が闘争に立つ時、そこでは相手と同じ平面に立っている。
フットボール、テニス、ボクシングにラグビー、、、
あの相撲でさえ、等しく平らな地に立つことになる。
等しく平らに立つことで、平等となる。
ただし、庇護と安寧を犠牲にして。

 

正当性とは、すなわち正闘性のことであり、
闘いに正しく向かうこと、闘いを正しく行うことことにあった。
ギリシャ人はオリンピアに向かい、
ポリスの中のポリス、ポリスの上のポリス、コスモポリスへと向かう。
オイコスの重力を追い越し、オイコスの天井をつきぬけ、
ポリスの天上もつきぬけ、コスモスへと向かう。
ただし、つかのまの出来事として。

正義の変遷

『民主主義の源流 古代アテネの実験』によると、殺人事件は「民事」であって、当時の裁判の対象ではなく、親族の復讐に委ねられていたらしい。殺人に対する復讐は、親族の権利でもあり義務でもあった、というのは他にも見られる規範のようだ。特に名誉や雄々しさを求める文化だとむしろ義務の色彩が強く、復讐しないで矛をおさめることは怯懦で情けないこととされたのではないかと思ったり。正義の女神の一人とされるディケー(Δίκη)は、古拙の時代にはむしろ復讐(や懲罰)のニュアンスが強かったと、どこかで読んだ。後に、正義そして裁判を意味するディケーへ。

 

アイスキュロス『オレステイア三部作』では、エリーニュス(「復讐」の女神)が伴走し伴奏する復讐の連鎖が、アテーナーの計らいで「裁判」というイベントの形に制度化(封じ込め)される。イーリアスからの復讐の連鎖は、アテーナーの思慮により裁判の闘争に転換されている。アテーナーの思慮により、平和がもたされ、「復讐」の女神たちは、「慈しみ」の女神に変容する。

 

正義の女神は苦しむものに秤を傾ける ―古代・中世ヨーロッパ文学に描かれた配分的正義と交換的正義― (香田芳樹)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgg/152/0/152_8/_pdf

古代ギリシア語には二つの「正義」, Θέμις(Themis)と Δίκη(Dike)があったことが知られている。ともに女神の姿で描かれる正義は母子関係にあり,時系列的にテミスがより古い法(掟)を代表し,ディーケーがより若い正義であることを示している。これは「義しさ」に二つのあり方があるということである。・・・ディーケーは,テミスに代表される古い法体系への抗議であり,新しい秩序の提案である。」

 

時代はくだり、『ゴルギアス』では、司法・裁判が、医術とのアナロジーで捉えられている。正義は、復讐から裁判にかわり、魂の治癒として提案される。『ポリテイア』では、δίκη (dike) からδικαιοσύνη (dikaiosyne) へと、言葉も変わっていくようだ。

「すなわち、魂(プシュケー)のための技術は、これを政治術(ポリティケー)呼んでいるのですが、他方、身体のための技術には、そうすぐとは一つの名称をあたえることはできません。けれども、身体の世話をするという点では、それは一つのものであって、そのなかには二つの分があると言っているのです。つまり、その一つは体育術であり、もう一つは医術です。これに対して、政治術のなかで体育術に相当するものは立法術であり、また医術に相当するものは司法です。」(加来訳『ゴルギアス』464B)

 

魂の救いは、最高の法なり
Salus animarum suprema lex
最高の法は、魂の救いなり

 

文字通りの裁判 (dike) によってソクラテスが死ぬことになったので、裁判=正義というのは、プラトンにとってそのままでは納得し難い。一方で、その価値も認めざるをえないというところで、正義論としての展開と転回があったのかも。プラトン独自の正義の定義。

 

民主主義の源流 古代アテネの実験 (講談社学術文庫)

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ギリシア悲劇〈1〉アイスキュロス (ちくま文庫)

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ゴルギアス (岩波文庫)

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codeのコンパイルの問題

プラトン『法律』における説得の技法 
「しかし、プラトンにとって、ムゥシケーの本質は、音楽と詩の統合された根源状態にこそあり、しかもその音楽的な要素、すなわちリズムとハルモニアーは、ロゴスに従わねばならないのである。」
 
プラトンの『法律(ノモイ)』では、前文(プロオイミオン)の提案があり、プロオイミオンは序曲という意味もあるらしい。一見、強制の作法に見える法律も、矯正の作法や共生の作法となるべく、音楽の力を始めに借りるらしい。
 
ソフトウェアが起動するためには、計算機のcode(プログラム)がにコンパイルされる必要がある。法治主義が起動するためには、人間社会ののcode(法典)が個々人にコンパイルされる必要がある。どんなによくできたcodeであっても、個別にコンパイルできなければ、文字通りに文字のまま。deployされないと意味がない。 codeのコンパイルには度々苦労する。「ライブラリ」が揃っていれば、コンパイルの問題は少ない。しかし、「ライブラリ」が揃っていないと、コンパイルに問題が生じる。バイナリで提供されないと困ってしまう。
 
薬のbio-availabilityのように、文字のpsycho-availabilityがあり、文字は、音という波を通して、物語の流れという波にのって、コンパイルされている。即実行可能なバイナリとは、つまり音と流れの波そのもののことであった。上に下にと行き来する波のことであった。

「生活世界の価値観を支える子守歌や昔話の説得的機能をプラトンは軽視してはいない。」 
 
「ところで、法の歴史的性質の強調は、法の詩的側面への関心を呼び起こした。かつて法は詩のように表現されていたからである。J・グリムには『法における詩について』という書物があり、法と詩歌は共通の起源を持つと主張している。」
内田貴『法学の誕生』P248)
 
既に存在している所与の法律や規則や決まりや規範とは別に、争いからその都度立ちあがるiusの流れはノモイとはまた異なる原理であるように思える。二つに別れた争いという二値化(バイナリ)は、また異なる原理であるように思える。
 
「これは既存の法を補充する形での法形成であり、原始社会で最初に法が誕生したときに行われる「法の発見」とは別の意味での法の発見である。これを彼(※穂積陳重)は法の「第二次発見」と名付けている。・・・しかし、文化がさらに進んで法規が整備されると、法規の外に規範法の原動力たるべき基本法が存在することを前提として、裁判官は、その基本観念である衡平 (Aequitas) 、正義 (Justitia) 、自然の理 (Naturalis ratio) といった抽象的観念を体現する権能・職務があると考えられるようになる。」
内田貴『法学の誕生』P239)
 
2つではなく、3つ、4つ、、、に分かれた法廷というのはあるのだろうか。。。
 
二大政党性は、イーリアスに由来している。
イーリアスもまた、二大政党性に由来している。
 

 

法律〈上〉 (岩波文庫)

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法律〈下〉 (岩波文庫)

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