ideomics

オブジェクト思考ブロギング

ソクラテスのサンバ術

宮を囲んで子どものように友と共に舞い踊り、みな宮の子になった。
宮の子が祭りごとに集まるごとに、都の政になった。
都が1となり、都が市になり、市が都となり、市もまた1となり、都と市は都市に1つになった。

 

現実的には非対称だが、祝祭で水平化する:
2のまま2を1とする過程と学ぶ課程を、問答の術 (dialec-tics) とし、
3のまま3を1とする過程と学ぶ課程を、三位の術 (tri...-tics) とし、
・・・
nのままnを1とする過程と学ぶ課程を、政の術 (poli-tics) と、仮定する*1

 

X=A1=A2=...=An
であるが、同時に、
A1≠A2......A1≠An,
A2≠A3...A2≠An,
...
..
An-1≠An
Xが最大の創意工夫 (invention) であり、互い同士の融合は「なく」、個別を保証しつつ、Xとのみの一体化。

 

自らをN分割して、NのままNを1とする過程と学ぶ課程を、個人(in-dividual)の術と呼べるだろうが、ただし、now-hereの自分は、今やno-whereな過去の自分に対して特権的であり、完全に同格とはいえない。ここでもX=identityが最大の創意工夫。共時の論理においては無理に見えるが、正直まだよくわかっていないが、とりあえず経時のズレを表しているのか、というところでごまかす。

 

無知(不知)の知。ヒト/人/人間としての知力(sophia, s1, s2,...sn)の差は大きくあるけれど、自然や宇宙全体に想定される無限の知(Sophia, S)に対すると、sk (1≦k≦n) がどんなに大きくても、Sに比べると0に近い。という意味で水平化され、0を中心として一体化する。カーニバル化される瞬間がある。

 

s1, s2,...snが、差異あるものの皆0に限りなく近づくカーニバル。ソクラテスの振り付けで踊るサンバ(Samba)術。現代では南アメリカの都市部に最もよく伝わっており、日本語では産婆術の当て字でよく知られている。彼は、dia-lec-ticsをnに拡張することで、既にpoli(poly)-ticsの踊りの振り付けもしていたのだった。祭り事で政。ソクラテスの最期は、踊りの振り付けをしているようにも見える。

 

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「ぼくの考えでは、アテナイ人の中で、真の意味での政=祭り事の技術に手をつけているのは、ぼく一人だけとはあえて言わないとしても、その数少ない人たちの中の一人であり、しかも現代の人たちの中では、ぼくだけが一人、ほんとうの政=祭り事の仕事を行っているのだと思っている。」(加来訳『ゴルギアス』521D改変)

 

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uni-versitas (versus)
対立を一に。ヨンパルト『教会法とは何だろうか』によると、persona juridicaが法人にあたるが、universitasという語も使われるらしい。大学論というのは、法人論も含んでいるのだろう。

 

「「法人」という制度は、教会法では国家法上の法人よりも古い歴史を持ち、またこの制度については相当の議論があった(例えば、何人で一つの法人が設立され得るか、・・・)。」(ヨンパルト『教会法とは何だろうか』)

 

「法人は、bona fidesに基づく信用を用済みとし、それに伴う厄介なコストを省くためのものであると考えられた形跡がある。これもまた所有権モデルの優越という歴史的事象の一環である。・・・しかし法人はその成り立ちからしてbona fidesの上にのみ組み立てうるという初歩は見失われている。まして、元来bona fidesを裏打ちしていた政治システムの要素を大規模に復元しなければならないという問題は意識されない。法人理論に内在する神学的基礎を復元するだけで、たちまちそのような課題は意識されるであろうに。」(木庭顕『新板ローマ法案内』)

 

*1:ただし、政の術 (poli-tics) のnは上限があるかもしれない。上限を超えると、統治機構(state)の術(sta-tics)になる可能性が高い。

Mamma-l, All Too Mamma-l

ドゥルーズによると、philo-sophiaとは、知(sophia)との友愛 (philia) らしい。敵と書いてトモと呼び、友と書いてライバルと読む。そんな距離感。一方で、sophiaとerosな関係があり、主体化・一体化(主体性と主観性)としての知との性愛関係、eros-sophiaがある。re-ligion=再結合、主体と一体化 (eros) =主体化がある。対極として、critique, science、いずれも語源に切断があり、客体化=脱主体化の運動。オブジェクト志向な思考で切断する。客体化と主体化の往復、ピストン運動としてのphilo-sophia

 

cognition(認知、知る)
re-cognition(認識、識る)
re-を再帰性としてみよう。再帰的な認知としての認識*1。自らの細胞を取り出し、より原初に近く多能な細胞へと脱分化させ、それを別方向に再分化して、自らに移植し返す。文を書く、自らと切り離す。自分の視界と網膜のtextureをtextとしてぺりぺりはがし、textのtextileの裁断・裁縫を経て衣服とし改めて着てみる。エクリチュールクチュリエール*2が、textのtextileを裁断して、テイラーメイドに文章=服飾を作り出す。

 

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erosの営みから間接的に生まれたmommy=mammaは、おそらく主体化されすぎている。erosから生まれたあまりに、主体に一体化されすぎている。mummyはピラミッドの奥深く隠されており、中にたどりつくことはなかなかできない。それを明かすと呪いがかかる。mommyも奥深くに隠されており、その深奥にたどりつくことはなかなかできない。それを明かすと呪いがかかる。そっとしておこう。。。水と健康と母の愛はタダ・・・これが「自然」の法則だ*3

 

"Mamma-l, All Too Mamma-l"...哺乳類=母的な、あまりに哺乳類=母的な、我々の社会とその『家族の基本構造』。。。それを識り過ぎたものは、共同体の罰を受け、イオカステの息子のように、自ら両目を潰すことになるだろう。

 

インセスト禁忌は純粋に文化に根ざすのでも、純粋に自然に根ざすのでもない。・・・それのおかげで、またそれによって、とりわけそれにおいて自然から文化への移行が達成される根本的手続き、これがインセスト禁忌なのである。」
「どんな婚姻もゆえに自然と文化、血族性と姻族性との劇的な出会いなのである。」
「社会状態が親族規則と婚姻規則を必要とさせるのではない。それらの規則がほかならぬ社会状態なのである。」
レヴィ=ストロース『親族の基本構造』)

 

しかし、mommyはもう疲れたよ。mummyになってもう永久に眠ってしまいたいよ。。。このmamma-l-ism(<哺乳類=母性>主義)と『家族の基本構造』は、critiqueと技術化を求めていた。mommyの細胞*4を取り出し、より原初に近く多能な細胞へと脱分化させ、それを別方向に再分化して、誰かに移植し返す。文を書く、主体と切り離す。我々の視界と網膜のtextureをtextとしてぺりぺりはがし、textのtextileの裁断・裁縫を経て衣服とし改めて着てみる。

 

客体化された、技術化された技術(techne/art, technologizing)としてのmaternityの主体化。既にmaternityは様々に技術化されており、これらの技術は、当然ながらこれまで継承・進歩し続けてきたし、これからもそうだろう。とはいえ、おそらく価値に対してクレジットは全く足りておらず、これは母へのクレジット不足と関係はありそうだ。producerは映画のエンドロールの筆頭に出てくるが、re-producerはエンドロールに載ることがほとんどない。productivityについて理知的に語られる機会はたくさんあるが、re-productivityについて理知的に語られる機会はより少ない。

*1:知能的 (intelligent) と知性的 (intellecutal) の差も似ているかも。

*2:フランス語では成り立たないけど、カタカナとしてご容赦あれ

*3:「家の最初にして最小の部分は、主人と奴隷、夫と妻、父と子という関係なのであるから、これら三つの関係について、各々がどんなものであるべきか、どういう性質のものであるべきかを考察しなければならないであろう。すなわち、それらは主人に関する術、婚姻に関する術・・・、第三に子作りの術――これにも固有の名づけがないからこう呼んでおく――である。こうしてわれわれが語ったよう、[家政を構成する]術は三つあるとしておこう。」(アリストテレス・牛田訳『政治学(ポリティカ)』第1巻第3章 家政とその部分)・・・ここで抜けている母と子の関係は、oikosのnomosではなく、oikosのphysis (physi-cs, physi-cal) そのものだから、語る対象ではないということだろうか。

*4:子どもとは、細胞質とその器官とゲノム情報半分の起源で言えばこれに当たる

ソクラテスメソッド

ソクラテスメソッド。それは、相手(子ども)を、ソクラテスとみなすことであり、教員や大人がソクラテスを気取るという意味ではない。だいたい私たちは、ソクラテスより、グラウコンやトラシュマコスにより近い。石工を営むこの小さなソクラテスたちが、我々から我と我を削り出す。既知のものが未知となり、無知をさらけ出し、先の不知を想う。思わず黙り、沈黙の息が流れる。

 

「いまや、自分自身が、自分にとって大きな謎となってしまいました。」(アウグスティヌス『告白』)

 

子ども。子を供とするのではなく、むしろ子と共に。学ぶと教えるの転倒、カーニヴァル・・・水平化・・・いやむしろ不安定化。お祭り。祝祭日は、休日ではない。祝いと祭りの日だった。学ぶと教えるの政。*1

 

「ぼくの考えでは、アテナイ人の中で、真の意味での政治の技術に手をつけているのは、ぼく一人だけとはあえて言わないとしても、その数少ない人たちの中の一人であり、しかも現代の人たちの中では、ぼくだけが一人、ほんとうの政治の仕事を行っているのだと思っている。」(加来訳『ゴルギアス』521D)

 

民が自らの人生の主人公であり、また自らの主人となり、自らを統治する。ことで、主義を主張するという、民主統治を前提にした民主主義。小さなソクラテスたちは、こう言った。親は子の鑑であり、子は親の鏡である。学ばせる?・・・あなたの姿が真似ばれている。あなたの姿がばれている。子どもを覗くとき、あなたもまた覗かれている。

 

reflexive voice(再帰する声=再帰動態) - ideomics

 

psycheとは息のこと。息するようにXXする。息がなければ生きがない。魂とは息であった。活きの良い粋な息であった。声とは息の特殊な形であり、あくまでも息の中に生きしている。沈黙もまた声の一つであり、より純粋な息(psyche)であった。というのは、20世紀になり、再び公に認められる。沈黙は伴奏のひとつであり、演奏の一つの形である。こうしたことは、交響曲作家の間ではよく知られている。

 

「語りえないものについては、沈黙するほかない。」・・・その後、彼はこう思った。・・・[沈黙の中に、息があった。吐息の蒸気とリズムがあった。デンタルフロスをしておこう。]・・・けれど、一度格好つけてしまった手前、それを口に出すのは憚られた。

 

*1:とはいえ、非対称な関係だし、親権を、献身ではなく、人権として、真剣に考える必要もあるんだけど。

Bachelor of ErosからDoctor of Philia (Ph.D) に至る家庭の課程

婚姻とは最古の大学院であったと聞く。Bachelor of Erosを卒業し、次の課程としてDoctor of Philia (Ph.D) に至る家庭の過程に進学する。passion(情熱)に始まりPassion(受難)となるこの課程で、家庭の家政を学び続ける。Doctor of Philosophyを真似たのではない。Doctor of Philosophyが真似たのだ。最高の大学院かどうかは知らない。

 

「女房、妻であるひとりの女性との関係が、当方の生き方にとって本質的である場合、そして、人間存在とは夫婦としての個人であり、その自然はふたりで共有する生活の実践のなかで実現されるのであれば、人が樹立する自己との関係と他者にたいして作り出す関係とのあいだには、本質的かつ根本的な不調和はありえないだろう。夫婦であることの術は、自己の陶冶の一部である。」(フーコー『自己への配慮』夫婦の絆)

 

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ゲノム上のtrioとしての父母子。母を抜き、子を反時計周りに移動させ、霊を招くtrinity(父子霊)。genesisとしてのgene結合を組み替えることで、再結合 (re-ligation) としてのtrinityが顕れる。自然 (physis/nature) のoikosともいえるtrioを組み替え、人為な技術 (techne/art) としてのoikos=再結合体 (re-ligion) が顕れる。

 

なぜ母は外されたのだろうか・・・教会そのものが花嫁であったから、姑が嫌われたのか。「母」が自然 (physis/nature) の所産とみなされたからなのだろうか。mammal(哺乳類/乳頭)のmammaとは、確かにそのように見える。哺乳類とは、名前から言って、母的である。しかし、それは系譜学者リンネに至る太古からの神話であったかもしれない。『母性という神話』・・・"L'Amour en plus"・・・それもまた、実は人為な技術 (techne/art) でもあったのだろう。

 

神父 (Father) が鏡を覗き込む。新婦 (virgin) が映っている。これは鏡像なのか虚像なのか。virginの鏡像=虚像は、Motherの何を隠しているのか・・・鏡像=虚像を覗く時、お前もまた鏡像=虚像に覗かれているのだ。。。

 

trinityの鏡像、ytinirt (trinity')・・・父子霊を鏡像として、母子霊。これは鏡像なのか虚像なのか・・・『ラ・ファミリア』の鏡には、父だけでなく母も写っている。『ラス・メニーナス』と呼ばれるようになり、鏡像が隠されることになった。自分たちの鏡像など、誰も見たくなかった。目の前の若い女の子たちしか、見たくなかった。

 

『ラス・メニーナス=ラ・ファミリア』 "Las Meninas = La Familia" - ideomics

 

"mort de l'homme"・・・hommeを単数形の男性(the man)と解すると、men, woman, women, そして二個体(あるいは多個体)としての一個人(individual)の可能性が浮かび上がってくる。

 

ごっこ遊びとしての法廷=演劇

プラトン対話篇が、(当時アテナイで重要だった)演劇を模して、なんか凄そうな人の話を書いとくか、というノリであったとしたら、「十分に発達した対話篇は、戯曲と区別がつかない」ように見えたものも、「十分に発達していない対話篇は、戯曲と区別がついていない」だけかもしれない。実際『弁明』って、法廷が舞台の一人戯曲で、悲劇の一種。悲劇からの誕生。

 

tragedyって、ヤギ・歌という語源があるらしい。仮にヤギがscape-goatの犠牲の山羊だとしたら(?)、(神に捧げる)サクリファイスを囲む歌みたいな感じか。オイディプスでもアンティゴネーでも、ソクラテスでもイエスでも。

 

悲劇。生まれの集団によって死に至り、故人となることで個人となる犠牲の山羊を囲む唄。故人が個人となり、祭りごとが祀りごととなり、政が生まれる。攻撃性と悲しみが固有名詞に昇華される。同期との同期を動機として、同期との同期を常軌として、動悸までが同期するこの唄の舞台から分岐する。故人が個人として、psycheが分岐する。身体から分岐する。

 

パンとワイン。肉と血と見立て、犠牲の山羊を囲む唄を歌い続ける。祭司が司祭となり、司祭が祭司となり、悲劇が上演され続けている。攻撃性と悲しみが昇華され続けている。彼らは、山羊の中の山羊を絶対とすることで、これ以上の山羊を求めなくなった。

 

"I hold the world but as the world, Gratiano,
A stage where every man must play a part,
And mine a sad one."
- Antonio (The Merchant of Venice)

 

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しかし、アンティゴネーが何回死ねば、わたしたちは気が済むのか。山羊を何匹殺せば、わたしたちは気が済むのか。叙事詩の英雄がいない国は不幸か?いや英雄が必要な国が不幸なのだ。悲劇のヒロインがいない国は不幸か?いや悲劇のヒロインが必要な国が不幸なのだ。悲劇とは別様に、争いをどう演劇的に処理するか。強制の作法と共生の作法の間に、競争の作法、そして闘争の作法。

 

「確実なのは、12表法が法律訴訟を開始するための被告の召喚から始まり、訴訟の終局における判決の執行で結ばれた、ということである。」(スタイン『ローマ法とヨーロッパ』)

 

子どもの「ごっこ遊び」として、法廷演劇っぽいノリで、喧嘩を処理しようとすると、結構ノってくれて、なかなかそのノリ自体が興味深い。まだ手探りだけど。子どものごっこ遊び。演劇の一種でもある。現実の自分とは異なる役をする。ディベートでは自分の心情とは違う意見や論理を役割として行ったりするみたいだけど、その点は演劇的 (drama-tic) 。

 

弁論術は、自分とは違うものを憑依して、ルールに沿ってやれるから成り立つものもある。スポーツという勝負事の舞台芸術は、ルールを最小にほとんどアドリブだが、ルールの一線がある。弁論というスポーツ=勝負事の舞台芸術も。

 

子どもとの関係、子どもがどう他の人と関係していくか、というところで、強権的でもなく、下手に出るのでもなく、というところで、(声の/言葉の)約束に基づく関係とは何だろうというのが最近のテーマ。文字はまだ先だから。

 

「法文の形で制定されることで、法(ユス)は法律(レークス)、すなわち法の公的で権威ある宣言となった。「法律(レークス)」という言葉は、「読み上げること(レゲーレ)」に由来するのである。」(スタイン『ローマ法とヨーロッパ』P6)

 

「実は、iusとlexの区別はローマ法の最大の特徴であると言ってもよいであろう。古代ローマでは、すでにたくさんの「法律」(lex, leges)が制定されており、問題が起こったときに適用されていたが、もっと大切にされたのは、ケース・バイ・ケースで当事者の権利(ius)を正義(iustitia)に適った方法で見出すということであった。」(ホセ・ヨンパルト『教会法とは何だろうか』P181)

 

meta-physicsという住まい(oikos)

新版 ローマ法案内: 現代の法律家のために

新版 ローマ法案内: 現代の法律家のために

 

 『新版ローマ法案内』のフレームでpolitics(ポリスの論理)とreciprotcite(テリトリーの論理)の対比がある。テリトリーを住まい=オイコスと考えると、ポリス vs オイコス (polis vs oikos)。

 

「以下に見るように政治や法はこの自由のために存在するから、reciprociteのさまざまなメカニズムに苦痛を覚える、苦痛を覚える人のその苦痛を理解する、ことができなければ政治も法も全く理解しえない。集団によって抑圧される個人の苦しみに共感しうる想像力を持たない人は法律学の学習も諦めたほうがよい。」(木庭顕『新版ローマ法案内』)

 

ポリス=physics、テリトリー=metaphysicsという対比にしてずらしてみると、

・ポリス=physicsでは、物理数理を頂点とした論証の世界
・テリトリー=metaphysicsは、自分の生存を確かにする世界。生存こそが命。psyche=魂=息=生きこそが命。自らが絶対に王である土地であり、何よりも不動である不動産としてのreal estate。魂の土地。

 

「私の王国はこの世のものではない。」・・・彼は気前の良い不動産屋だ。real state=王の土地。real estate=不動産。real estate=この上なくリアルな資産。彼はその取引にお金を取らない。なぜなら、その土地は無限にあるから。ただし彼との取引には、約束があった。

 

カエサルのものはカエサルのものに。神のものは神のものに。」・・・テリトリーの充実、ポリスとの切断による充実。奴隷や召使を必要としないテリトリー。cultureとは、この土地=培地を耕すこと。自らのテリトリーを耕すこと。良き羊飼いは、自らを羊飼いとし、また自らを羊として、羊を富ます。

 

どうして勉強するの?という質問に、大人が「生活する」「稼ぐ」「人の役に立つ」といったありきたりの返答する中、子どもが「こうやってできるようになったら、○○が大人になったら、また子どもに教えられるでしょ。そうしたら、嬉しいじゃない。」という答えが返ってきた。まさに魂(psyche)の不滅と、愛知(philo-sophia)が、一体であることを端的に示している*1。知なり何らかの客体に魂を込めることが仮にできたら、一定の魂の(死後の)持続となるが、そこに対する愛着なり執着なりが、おそらく前提にされ、そうなれば、結果的に一定の魂の(死後の)持続がもたらされる。

魂の不死について - ideomics

 

「われわれは、よくこう言う――われわれは、だれを自分の親にするかを選べなかった。親は偶然によって与えられるものなのだと。ところが、必ずしもそうではない。われわれには、自分の望みどおりの親の子として生まれることも許されているのだ。きわめて高貴な天才たちには、[学派という]それぞれの家がある。どの家の子になりたいか選びなさい。あなたは、たんに家の名だけでなく、財産をも受け継ぐことになるだろう。あなたは、その財産を、みみっちく、けちけちと守る必要はない。それは、多くの人に分け与えられれば、それだけ増えていくのだから。」(セネカ『人生の短さについて』)

 

われわれは、よくこう言う――われわれは、どの土地を自分の資産にするかを選べなかった。土地は偶然によって与えられるものなのだと。ところが、必ずしもそうではない。われわれには、自分の望みどおりの土地を受け継ぐことも許されているのだ。きわめて高貴な天才たちには、[metaphysicsという]それぞれの土地がある。どの土地をもちたいか選びなさい。あなたは、たんに土地の名だけでなく、不動産をも受け継ぐことになるだろう。あなたは、その不動産を、みみっちく、けちけちと守る必要はない。それは、多くの人に分け与えられれば、それだけ増えていくのだから。

 

ただし、「政治システムの破壊とは必ずテリトリーのロジックに政治システムを屈服させることであるから・・・。・・・特定の主体の身体から発し結果がその主体に返ってくるという連関がなければならない。テリトリーのロジック、reciprocite以外に政治を破壊するものはないからである。」(木庭顕『新版ローマ法案内』)

 

切断されたテリトリー(田園)の充実と同時に、ポリス(都市)との接続/再接続・・・田園都市線。どこに走っているのだろうか・・・physicsとmeta-physicsの間に、meso-physics(形而中学)・・・文字、画像、音響、彫刻。物理的(physics)なインクの染みや液晶で書かれたscript(meso-physics)。インクが蒸発して香る。香りがspiritになる。やがてmeta-physicsになる。meta-physicsが霊感(in-spir-ation)を浴びて、scriptになる。物理的(physics)なインクの染みや液晶で書かれたscriptになる。

アナキン・コンプレックス

"If you only knew the power of The Dark Side. Obi-Wan never told you what happened to your father."
"He told me enough. He told me you killed him."
"No, I am your father."
"No... that's not true. That's impossible."
(Darth Vader & Luke Skywalker, from "STAR WARS")

 

現代、「父」は殺されたことになっていたが、実は仮面をつけて生きていた。会社に行っていた。息子は、本当の「父」は、深夜に帰宅する彼に殺されたのだと思っていた。でも本当は彼が「父」だった。信じられない。ありえない。退職して素顔を見せる。産業時代の父の仮面。

 

Darth Vader (Dark Father)*1・・・闇夜の夜に帰る父。邪悪などではない。単に夜が好きなだけなのだ。新橋の夜が好きなだけなのだ。銀座の夜が好きなだけなのだ。サラリーマンたちは、会社(economy)を家(oikos)として、兄弟の契りを結ぶ。リーマン・ブラザーズの始まりである。

 

家政から生まれた家計と家庭。家計はフォースを身につけ、家庭を圧倒し、家政の地位を得た。oikos-nomosから生まれたeconomyが、oikosのnomosそのものになった。会社(economy)が住まい(oikos)になった。Darth Vaderに殺された「父」の素顔を知ったのは、彼の最期の時だった。

 

「だれでもわたしのために、また貨幣のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の資本(年金)を受ける。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」(マルコ10:29-31を改変)

 

リーマン・ショック。リーマンのショック。父には居場所がない。彼らを犠牲の山羊として悲劇のカタルシスを得るのではなく、むしろダースベイダーとアナキンの二人を法廷に招く闘争の作法。ダースベイダーとアナキンの闘い・・・自らと闘い続ける。自らが勝利者になり、そして敗北者にもなる。英雄ともなり、そして悲劇ともなる。

 

親権(権利)を献身としてではなく、人権として真剣に健診。親権の証券化。親権の金融的権利化。親権者を資本家として、イエを資本化。Capital: a critique of political-eco-nomyは、polis-oikos-nomosもcritiqueすることになるのか。

 

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パターナリズムの問題。建国の父(Founding Fathers)、神父(Father)、何が父なのか?パターナリズム=パターン&リズム・・・彼のパターン&リズムとは何なのか。ラテン語のPatrici(貴族)、建国の父的な表現を『新版ローマ法案内』で匂わせていたが、Pater(父)と関係あるのだろうか。

 

『ポリテイア』の哲人の話も、統治者という訳語が基本だけど、守護者という表現もあって、行政機構がなかった時代の数万人以内でのリーダーは、模範や象徴、権力というより権威、というニュアンスも大きかったのかもと思った。英雄ってそうだし。真似ぶ>学ぶ。学びに対する真似びの圧倒的優位。何かを範として真似ぶ。無意識>意識に似ている。学ばせる?・・・あなたの姿が真似ばれている。あなたの姿がばれている。

 

「人は自分の家を治めるように、しかも国家のなかで自分の役目を果たすように、自分自身を治めなければならないのだから、・・・自分自身の取締りを確実に実施すること、自分の家の管理を行うこと、国家の統治に参与すること、これらは同じ型の三つの実践なのである。・・・クセノフォンの『家庭管理(オイコノミコス)』が明示するのは、これら三つの≪技術≫のあいだの連続性と異質同形性であり、また、個人の生活におけるこれら三つの営みの時間的な継起でもある。」
フーコー『快楽の活用』)

 

大規模な行政国家("国"家)で、政策の制作に家のアナロジーを使うのは悪手も悪手だろうが、ポリスサイズの~数万人(世帯で数千?)の都市国家(国”家”)では、家のアナロジーがむしろ有効な面があるということだろうか。

 

*1:オランダ語でDark Fatherの意味らしい。