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オブジェクト思考ブロギング

ごっこ遊びとしての法廷=演劇

プラトン対話篇が、(当時アテナイで重要だった)演劇を模して、なんか凄そうな人の話を書いとくか、というノリであったとしたら、「十分に発達した対話篇は、戯曲と区別がつかない」ように見えたものも、「十分に発達していない対話篇は、戯曲と区別がついていない」だけかもしれない。実際『弁明』って、法廷が舞台の一人戯曲で、悲劇の一種。悲劇からの誕生。

 

tragedyって、ヤギ・歌という語源があるらしい。仮にヤギがscape-goatの犠牲の山羊だとしたら(?)、(神に捧げる)サクリファイスを囲む歌みたいな感じか。オイディプスでもアンティゴネーでも、ソクラテスでもイエスでも。

 

悲劇。生まれの集団によって死に至り、故人となることで個人となる犠牲の山羊を囲む唄。故人が個人となり、祭りごとが祀りごととなり、政が生まれる。攻撃性と悲しみが固有名詞に昇華される。同期との同期を動機として、同期との同期を常軌として、動悸までが同期するこの唄の舞台から分岐する。故人が個人として、psycheが分岐する。身体から分岐する。

 

パンとワイン。肉と血と見立て、犠牲の山羊を囲む唄を歌い続ける。祭司が司祭となり、司祭が祭司となり、悲劇が上演され続けている。攻撃性と悲しみが昇華され続けている。彼らは、山羊の中の山羊を絶対とすることで、これ以上の山羊を求めなくなった。

 

"I hold the world but as the world, Gratiano,
A stage where every man must play a part,
And mine a sad one."
- Antonio (The Merchant of Venice)

 

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しかし、アンティゴネーが何回死ねば、わたしたちは気が済むのか。山羊を何匹殺せば、わたしたちは気が済むのか。叙事詩の英雄がいない国は不幸か?いや英雄が必要な国が不幸なのだ。悲劇のヒロインがいない国は不幸か?いや悲劇のヒロインが必要な国が不幸なのだ。悲劇とは別様に、争いをどう演劇的に処理するか。強制の作法と共生の作法の間に、競争の作法、そして闘争の作法。

 

「確実なのは、12表法が法律訴訟を開始するための被告の召喚から始まり、訴訟の終局における判決の執行で結ばれた、ということである。」(スタイン『ローマ法とヨーロッパ』)

 

子どもの「ごっこ遊び」として、法廷演劇っぽいノリで、喧嘩を処理しようとすると、結構ノってくれて、なかなかそのノリ自体が興味深い。まだ手探りだけど。子どものごっこ遊び。演劇の一種でもある。現実の自分とは異なる役をする。ディベートでは自分の心情とは違う意見や論理を役割として行ったりするみたいだけど、その点は演劇的 (drama-tic) 。

 

弁論術は、自分とは違うものを憑依して、ルールに沿ってやれるから成り立つものもある。スポーツという勝負事の舞台芸術は、ルールを最小にほとんどアドリブだが、ルールの一線がある。弁論というスポーツ=勝負事の舞台芸術も。

 

子どもとの関係、子どもがどう他の人と関係していくか、というところで、強権的でもなく、下手に出るのでもなく、というところで、(声の/言葉の)約束に基づく関係とは何だろうというのが最近のテーマ。文字はまだ先だから。

 

「法文の形で制定されることで、法(ユス)は法律(レークス)、すなわち法の公的で権威ある宣言となった。「法律(レークス)」という言葉は、「読み上げること(レゲーレ)」に由来するのである。」(スタイン『ローマ法とヨーロッパ』P6)

 

「実は、iusとlexの区別はローマ法の最大の特徴であると言ってもよいであろう。古代ローマでは、すでにたくさんの「法律」(lex, leges)が制定されており、問題が起こったときに適用されていたが、もっと大切にされたのは、ケース・バイ・ケースで当事者の権利(ius)を正義(iustitia)に適った方法で見出すということであった。」(ホセ・ヨンパルト『教会法とは何だろうか』P181)

 

meta-physicsという住まい(oikos)

新版 ローマ法案内: 現代の法律家のために

新版 ローマ法案内: 現代の法律家のために

 

 『新版ローマ法案内』のフレームでpolitics(ポリスの論理)とreciprotcite(テリトリーの論理)の対比がある。テリトリーを住まい=オイコスと考えると、ポリス vs オイコス (polis vs oikos)。

 

「以下に見るように政治や法はこの自由のために存在するから、reciprociteのさまざまなメカニズムに苦痛を覚える、苦痛を覚える人のその苦痛を理解する、ことができなければ政治も法も全く理解しえない。集団によって抑圧される個人の苦しみに共感しうる想像力を持たない人は法律学の学習も諦めたほうがよい。」(木庭顕『新版ローマ法案内』)

 

ポリス=physics、テリトリー=metaphysicsという対比にしてずらしてみると、

・ポリス=physicsでは、物理数理を頂点とした論証の世界
・テリトリー=metaphysicsは、自分の生存を確かにする世界。生存こそが命。psyche=魂=息=生きこそが命。自らが絶対に王である土地であり、何よりも不動である不動産としてのreal estate。魂の土地。

 

「私の王国はこの世のものではない。」・・・彼は気前の良い不動産屋だ。real state=王の土地。real estate=不動産。real estate=この上なくリアルな資産。彼はその取引にお金を取らない。なぜなら、その土地は無限にあるから。ただし彼との取引には、約束があった。

 

カエサルのものはカエサルのものに。神のものは神のものに。」・・・テリトリーの充実、ポリスとの切断による充実。奴隷や召使を必要としないテリトリー。cultureとは、この土地=培地を耕すこと。自らのテリトリーを耕すこと。良き羊飼いは、自らを羊飼いとし、また自らを羊として、羊を富ます。

 

どうして勉強するの?という質問に、大人が「生活する」「稼ぐ」「人の役に立つ」といったありきたりの返答する中、子どもが「こうやってできるようになったら、○○が大人になったら、また子どもに教えられるでしょ。そうしたら、嬉しいじゃない。」という答えが返ってきた。まさに魂(psyche)の不滅と、愛知(philo-sophia)が、一体であることを端的に示している*1。知なり何らかの客体に魂を込めることが仮にできたら、一定の魂の(死後の)持続となるが、そこに対する愛着なり執着なりが、おそらく前提にされ、そうなれば、結果的に一定の魂の(死後の)持続がもたらされる。

魂の不死について - ideomics

 

「われわれは、よくこう言う――われわれは、だれを自分の親にするかを選べなかった。親は偶然によって与えられるものなのだと。ところが、必ずしもそうではない。われわれには、自分の望みどおりの親の子として生まれることも許されているのだ。きわめて高貴な天才たちには、[学派という]それぞれの家がある。どの家の子になりたいか選びなさい。あなたは、たんに家の名だけでなく、財産をも受け継ぐことになるだろう。あなたは、その財産を、みみっちく、けちけちと守る必要はない。それは、多くの人に分け与えられれば、それだけ増えていくのだから。」(セネカ『人生の短さについて』)

 

われわれは、よくこう言う――われわれは、どの土地を自分の資産にするかを選べなかった。土地は偶然によって与えられるものなのだと。ところが、必ずしもそうではない。われわれには、自分の望みどおりの土地を受け継ぐことも許されているのだ。きわめて高貴な天才たちには、[metaphysicsという]それぞれの土地がある。どの土地をもちたいか選びなさい。あなたは、たんに土地の名だけでなく、不動産をも受け継ぐことになるだろう。あなたは、その不動産を、みみっちく、けちけちと守る必要はない。それは、多くの人に分け与えられれば、それだけ増えていくのだから。

 

ただし、「政治システムの破壊とは必ずテリトリーのロジックに政治システムを屈服させることであるから・・・。・・・特定の主体の身体から発し結果がその主体に返ってくるという連関がなければならない。テリトリーのロジック、reciprocite以外に政治を破壊するものはないからである。」(木庭顕『新版ローマ法案内』)

 

切断されたテリトリー(田園)の充実と同時に、ポリス(都市)との接続/再接続・・・田園都市線。どこに走っているのだろうか・・・physicsとmeta-physicsの間に、meso-physics(形而中学)・・・文字、画像、音響、彫刻。物理的(physics)なインクの染みや液晶で書かれたscript(meso-physics)。インクが蒸発して香る。香りがspiritになる。やがてmeta-physicsになる。meta-physicsが霊感(in-spir-ation)を浴びて、scriptになる。物理的(physics)なインクの染みや液晶で書かれたscriptになる。

アナキン・コンプレックス

"If you only knew the power of The Dark Side. Obi-Wan never told you what happened to your father."
"He told me enough. He told me you killed him."
"No, I am your father."
"No... that's not true. That's impossible."
(Darth Vader & Luke Skywalker, from "STAR WARS")

 

現代、「父」は殺されたことになっていたが、実は仮面をつけて生きていた。会社に行っていた。息子は、本当の「父」は、深夜に帰宅する彼に殺されたのだと思っていた。でも本当は彼が「父」だった。信じられない。ありえない。退職して素顔を見せる。産業時代の父の仮面。

 

Darth Vader (Dark Father)*1・・・闇夜の夜に帰る父。邪悪などではない。単に夜が好きなだけなのだ。新橋の夜が好きなだけなのだ。銀座の夜が好きなだけなのだ。サラリーマンたちは、会社(economy)を家(oikos)として、兄弟の契りを結ぶ。リーマン・ブラザーズの始まりである。

 

家政から生まれた家計と家庭。家計はフォースを身につけ、家庭を圧倒し、家政の地位を得た。oikos-nomosから生まれたeconomyが、oikosのnomosそのものになった。会社(economy)が住まい(oikos)になった。Darth Vaderに殺された「父」の素顔を知ったのは、彼の最期の時だった。

 

「だれでもわたしのために、また貨幣のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の資本(年金)を受ける。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」(マルコ10:29-31を改変)

 

リーマン・ショック。リーマンのショック。父には居場所がない。彼らを犠牲の山羊として悲劇のカタルシスを得るのではなく、むしろダースベイダーとアナキンの二人を法廷に招く闘争の作法。ダースベイダーとアナキンの闘い・・・自らと闘い続ける。自らが勝利者になり、そして敗北者にもなる。英雄ともなり、そして悲劇ともなる。

 

親権(権利)を献身としてではなく、人権として真剣に健診。親権の証券化。親権の金融的権利化。親権者を資本家として、イエを資本化。Capital: a critique of political-eco-nomyは、polis-oikos-nomosもcritiqueすることになるのか。

 

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パターナリズムの問題。建国の父(Founding Fathers)、神父(Father)、何が父なのか?パターナリズム=パターン&リズム・・・彼のパターン&リズムとは何なのか。ラテン語のPatrici(貴族)、建国の父的な表現を『新版ローマ法案内』で匂わせていたが、Pater(父)と関係あるのだろうか。

 

『ポリテイア』の哲人の話も、統治者という訳語が基本だけど、守護者という表現もあって、行政機構がなかった時代の数万人以内でのリーダーは、模範や象徴、権力というより権威、というニュアンスも大きかったのかもと思った。英雄ってそうだし。真似ぶ>学ぶ。学びに対する真似びの圧倒的優位。何かを範として真似ぶ。無意識>意識に似ている。学ばせる?・・・あなたの姿が真似ばれている。あなたの姿がばれている。

 

「人は自分の家を治めるように、しかも国家のなかで自分の役目を果たすように、自分自身を治めなければならないのだから、・・・自分自身の取締りを確実に実施すること、自分の家の管理を行うこと、国家の統治に参与すること、これらは同じ型の三つの実践なのである。・・・クセノフォンの『家庭管理(オイコノミコス)』が明示するのは、これら三つの≪技術≫のあいだの連続性と異質同形性であり、また、個人の生活におけるこれら三つの営みの時間的な継起でもある。」
フーコー『快楽の活用』)

 

大規模な行政国家("国"家)で、政策の制作に家のアナロジーを使うのは悪手も悪手だろうが、ポリスサイズの~数万人(世帯で数千?)の都市国家(国”家”)では、家のアナロジーがむしろ有効な面があるということだろうか。

 

*1:オランダ語でDark Fatherの意味らしい。

魂の不死について

人類全体というクラウドを想定すると、どんな人でも何らかの影響を与えている。どうやっても消し難く影響を残しまくっている人もいれば、全体からするとうっすらと、という人まで。そして、あらゆる人はそのクラウドから何かしら備給され続けている。

 

いわゆる生まれ変わりはさすがに信じるのは難しいけど、何かしら消し難いものを大なり小なり残しているという意味では、魂(psyche)の(そこそこの)不滅というのは、物質という水準はおいておいて、精神の水準では言える部分がありそう。正確には、不滅というより、生物学的死を越えた一定の持続というべきか。

 

ゴーストライター。文を書く。死者たちとともに書いている。死者たちに憑かれている。文を書く。みなゴーストライターになっている。そして、文に自分を埋葬している。選挙カー、この世界は死者たちの声で騒がしい。
ゴーストライター - ideomics

 

ブログ=blog=B-log=Be log.
ログ(記録)となれ。
ウェブログWeblog=We, B-log=We, be log.
我々よ、我と我よ、ログ(記録)となれ。

 

「<記録>こそは、自己との関係、あるいは自己の自己による力動の、ほんとうの名前である。・・・主体あるいは主体化としての歴史は、記録と名付けられる。」*1

 

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生物学的な覚醒水準の話と別に、自己とその他の区別という意味での「自意識」って、まったく自明ではないし、少なくとも幼少期はあまりはっきりしてなさそうな感じ。もちろん他人の内観はわからないけど。自他の区別は徐々についてくるが、一方で、大人になったからといって自動的に、ではない。「個」という意識は、より一層自明ではない。個人になるというのも十分難しい発達課題。

 

「今の所を私のためにも祈ってください、ソクラテスよ。友のものはすなわち、我が物でもありますからね。」 (藤沢訳『パイドロス』279C)

所有物という理解をすると、共有・共産的な発想にも見えるが、むしろ、自意識の未分化を感じる部分でもある。魂(psyche)の未分化。

*1:「<記憶>こそは、自己との関係、あるいは自己の自己による情動の、ほんとうの名前である。カントによれば、時間は、そのもとで精神が自己に影響するような形態であった。ちょうど、空間が、そのもとで精神が他のものに影響されるような形態であったように。・・・主体あるいは主体化としての時間は、記憶と名付けられる。」(ドゥルーズフーコー』から改変)

祭りごとのお約束

10月30日。いつも混んでる駅のハロウィン祭りが閑散としていた。大雨のせいだろう。祭りは天気次第。人の業をえた部分がある。神はサイコロを振らないという言葉があるけど、サイコロ(確率)こそが、神(超越的)なのではないか、決定論こそ人間的、あまりに人間的な考え方なのではないかと思うこともある。

大雨の中でも、ハロウィンに繰り出す人々。一年に一度、浮世の仮装を解いている。

 

神が紙となったとき、律法は法律となり、会社が社会となった。神と君の統治を倒置し、民の統治となり、なおさら紙は一層必要だった。東大に登第し、統治の等値な政策の製作を学んだ者が、紙を司る。統治が倒置されると、君はミッキーとなった。ミッキーを祀り奉る祭りごとが舞浜にできた。

 

皆で集まり、君のミッキーを祀り、祭りで奉る。皆でミッキーを待って、祭りを舞って、集まりごとが成り立った。集まる毎に暗黙の約束ができ、祭り事になり、祭り事に言葉の約束が加わり、新しい政になった。はじまりに約束がある。祭り事としての政は、祀り奉ることで、はじめて「集まりごと」が成り立った。東大に登第し政策を製作する者は、祭りごとが得意とは必ずしも限らない。

 

祭り事から生まれる政。それは、ディズニーリゾートで日々生まれている。開業とともにファストパスに向かって走り出すお父さんたちに、キャストたちが「走らないでくださ~い」と声をかけ、彼らが自ら足を止めるとき、そこには言葉の約束が生まれていたのだった。ディズニーリゾートは、祭りごとの始まりとともに、最古の政の始まりを告げている。

 

「祭りに参加できるかどうかということは大変大きなことなのです。ある町では被差別民は祭りに参加できないのです。職人も参加できないばあいが多いのですが、娼婦は参加できました。」(阿部謹也『西洋中世の男と女』)

 

ディズニーランドの入場制限は6, 7万人。この数字は、古代ポリスの市民の数を根拠に決められている。

 

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お約束は、楽しいことから始まる。言葉、あるいは歌から始まる。

 

宇多田ヒカル。私情を詩情と市場にのせて、歌が光り響き渡った。その光と音で、日本語とにほんごに、alphabetと奇妙な発声が発生した。日本語は4つの文字を持ち、にほんごはLとRが少しわかった。彼女の名前は動詞となり、国家の骨格を形作った。

 

「なぜなら、およそどのような場合にも、国家社会の最も重要な習わしや法にまで影響を与えることなしには、音楽・文芸の諸形式を変え動かすことはできないのだから。これはダモンも言っていることだし、ぼくもそう信じている。」(藤沢訳『ポリテイア(国家)』424C)

 

『ポリテイア(国家)』の対話篇は、女神ベンディスのお祭りの帰り道から始まっている。お祭りの帰り道、何人かで話し合う。祭りの後に集まりごと。祭りの後に政。

 

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「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」
戦いとは他の手段をもってする祭りごとの継続である。

 

血祭りにあげる、血のお祭りでアゲていく。
それはおそらく、(道徳的な理性とは別に)ヒトの否定しがたい部分があるのだろう。

 

二大政党性は、トロイア戦争に由来している。
トロイア戦争もまた、二大政党性に由来している。

 

戦いをお祭りに。オリンピック。スーパーボウル日本シリーズチャンピオンズカップ
味の素スタジアムの収容観客人数は5万人。この数字もまた、古代ポリスの市民の数を根拠に決められている。

 

democracyを民主主義と訳す。民が主となり、主義と思いをぶつけあう祭りごと。democracyを民衆統治と訳す。統治について考える。ヒトの思いや主義と統治の間には、一定の留保で一部に保留がある。間に、紙と法がある。バヴロックによると、『ポリテイア』は政府論というより教育論だと。著者の実践(アカデメイア)含め、言われてみればそりゃそうだという感じだけど、『国家』という統治機構寄りのタイトルだと忘れてしまいやすい。政治。政と治。祭りごとと統治。その間、あるいは直線の外に点を打つもの。

政治:政(祭り事)と治(統治) - ideomics

 

日と月の明かり

photography(写真術)ができた頃、scientistという言葉が生まれたらしい。

「「科学者(サイエンティスト)」という新造語と、それを自然科学を実践する者のみに限定する使い方は、1830年代および1840年代以降に出てきたものである。その用語をしっかり確立したという功績は、通常、哲学者で科学史家のウィリアム・ヒューエルのものとされており、彼は1840年出版の著書『機能的科学の哲学』でこの語を用いている。」(スノー『二つの文化と科学革命』)

 

写真と絵画。photographyができてから、絵画は自らを一層探すことになった。scientistができてから、言語も自らを一層探すことになった。言語も、言と語も、自ら、言い、そして、語りたい。

 

photo-graph=光画。自然の光という鉛筆で描かせしめる。人が描くのではなく、自然が描いている。光が差し込んでいる。洞窟の電灯で写真を撮っている?・・・それは真に写しているものなのか?真を写しているものなのか?

 

明証。明るい証し。日と月による明かし。日と月が照らす。日と月に慣れ過ぎてしまうと、新月の夜に動けない。実はネオンサインの光でも動けない。空間に広がる音を聴く。赤外線スコープがなくても、なんとか大丈夫。

 

洞窟の闇に沈みたくなる…太陽が眩しかったから。月の光があった。それは日の反射光(reflection)ではあったけど、日の光ほどは眩しくはない。月の光のreflection。これで洞窟から出られる。

 

日のリズムと月のリズム。エロースの導きで、月の満ち欠けを識る。月のリズムを識る。エロースの導きで、月の明るさを識る。月明かり。それなら肉眼でも見れそうだ。・・・月が綺麗ですね。太陽光。レンズ職人がいた。光学顕微鏡を覗くとき、あなたもまた光に覗かれている。

 

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哲学は、真理を追究する営みとしてだと、現代では厳しいものがあるけど、個の発達、群れからの一旦のデタッチメントという発達課題的な位置づけという心理面では大きそう。

 

「全世界は哲学する者たちにとって流謫の地である。・・・
祖国が甘美であると思う人はいまだ繊弱な人にすぎない。けれども、すべての地が祖国であると思う人はすでに力強い人である。がしかし、全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である。」(サンヴィクトールのフーゴー)
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/ff14151c9c9d94fe526fa7e704fe06d2

 

cogitoも、何かしら「思考」としかとりあえずは言えないものが「在る」、それがひとまず「私」の出発点である、と。脱世間としての思考=体験=私。

 

真理を知るには、
自然言語でごちゃごちゃ思弁するよりは、
自然科学でがちゃがちゃ実験した方が良い。
心理を知るには、
しかし、どうだろう。

 

そして、やがて月の光を識る。

「人間はどうしても物自体を認識することはできないのです。・・・ですからカントは伝統的な意味での真理の基準に依拠するかぎり、人間は真理には絶対に到達できないと考えたのです。・・・・・・しかし、カントはここで真理を認識できなという懐疑論をもちだすのではなく、真理の考え方を変えることを提案するのです。そしてカントが提案したのは、認識の客観的な実在性という概念でした。・・・・・このコペルニクス的転回を経たことで、真理の概念はもはや対象と認識の一致という古典的な観点から考えられるのではなく、人間の認識が他者と了解しあうことのできる間主観的で共同的なものとなるのはどのようにしてか、という新たな問いに変わっているのです。」(中山元自由の哲学者カント』)

 

ブリリアントカット

胸像で反射(reflection)された視線は内省(reflection)となる。
人々は、視線を自らに向けるために、仏像を作った。
仏像を覗くとき、お前もまた仏像に覗かれている。

 

鏡像で反射(reflection)された視線も当然、内省(reflection)となる。
人々は、視線を自らに向けるために、鏡を作った。
鏡を覗くとき、そこに映った私とは、ほんの少しのずれがある。

 

視線が折り返される。胸像が、そして鏡像が視線を反射する。記録に残る限り、ローマのマルティアという女性・・・画家の娘らしい・・・が初めて自画像を描いたとか。この頃、初めて鏡が作られた。(伝聞、プリニウス『博物誌』)

 

恋人たちが婚約の徴としてブリリアンカットのダイヤモンドを贈るとき、様々に咲き乱れる反射光(reflection)は、様々に咲き乱れる内省(reflection)を意味している。それは、その後の家庭を作る過程で、様々に咲き乱れる複雑な内省が生じることを、光学的に顕しているのだった。

 

「人は自分の家を治めるように、しかも国家のなかで自分の役目を果たすように、自分自身を治めなければならないのだから、・・・自分自身の取締りを確実に実施すること、自分の家の管理を行うこと、国家の統治に参与すること、これらは同じ型の三つの実践なのである。・・・クセノフォンの『家庭管理(オイコノミコス)』が明示するのは、これら三つの≪技術≫のあいだの連続性と異質同形性であり、また、個人の生活におけるこれら三つの営みの時間的な継起でもある。」(フーコー『快楽の活用』)

 

ピカソは、絵画を絵画のままブリリアントカットすることを思いついた。彼は絵画と結婚することを約束したのだった(後に浮気する)。しかし、ダイヤモンドのブリリアンカットはまったく容易ではない。言語をブリリアントカットできる職人は数少ない。ブリリアンカットには58面いるらしい。言語を58面にカットし複雑な反射=内省を生み出す。。。そんなことが、しかし、可能なのだろうか。。。