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オブジェクト思考ブロギング

『モラルの起源――実験社会科学からの問い』(亀田達也)

 

モラルの起源――実験社会科学からの問い (岩波新書)

モラルの起源――実験社会科学からの問い (岩波新書)

 

 

亀田先生の『モラルの起源――実験社会科学からの問い』(岩波新書)、とても良かった。初めが、例の人文系削減云々の話へのレスポンスとして書かれていて、今まで見た中で、一番敬意の持てるレスポンスだった。

 

進化の中で「身」につけてきたであろうダンバー数以下の(社交, social)関係でのパターンと、それ以上の数になる(社会, societal)関係。後者のように抽象的な関係は、文字通り「身近」ではないので、そこの断絶をどう乗り越えるか。に近い趣旨もちらほらあって、興味が重なる。

 

トランプ現象も、個人的には、声=社交=文化=身体(social)と文字=社会=文明=抽象(societal)の対立にも見える。亀田先生の仕事、今後も楽しみだ。身体論としての、ソマティカーとしての医学は、socialまでがその射程範囲とも言えるか。そこ(ダンバー境界)を越えると、領分が変わるイメージ。医学論としての(biomedicineに対する)bio-psycho-social (Engel, Science 1977) は、裏側のメッセージとして、その射程は、socialで「止まりますよ」ということとも言えるか。そこから先は、ようわからん、と。

 

ラテン語、漢文。日常的な発声から切り離されるほど、純粋な書字になるほど、学問的な探求には向く。精緻化にも権威の面でも。書字(script)から声=息(spirit)を切断する。切断されて宙に舞ったspiritは、道化師のもとにいた。ある日を境にして、トランプのjoker(道化師)は、kingとして書字を生業とする者たちの上に君臨することになった。それは冗談(joke)でなく、単なる現実であった。

 

social(社交的)とsocietal(社会的)の切断は、連続的なものの適当な切断として設定されるものなのか、わりと「自然」に近い現象として捉えられるのか。幸福はsocialな概念(声の文化)で、成功はsocietalな概念(文字・記号の文明)、相関するけど、同じものではない。特に通貨的な数字(数字=代表値で端的に表現された価値)はわかりやすく、また序列による競争心を煽る。文明的、あまりに文明的な。

 

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「本実験の結果は、「異質な相手」に対する利他性が、自分と同質である内集団に向きがちな情動的共感ではなく、相手の立場を考慮した認知的共感によって担われる可能性を意味するものかもしれません。」(亀田達也『モラルの起源』P112)

これは臨床心理士という仕事が、才能ではなく職能(技能)として担われることへの支持的な意見かも。

 

「ホットな感情は身近な相手への利他行動を支える重要な基盤となる反面、共感性の働く範囲を「いま、ここ、私たち(内集団)」に限定しがちです。150人程度の小さいグループにおいて進化時間で有効だったホットな共感性は、何百万人が暮らす大都市や70億を超える未知の人々が相互依存する現代社会の問題群、すなわち「未来、あちら、彼ら(外集団)」を含む問題群に対処するためには不十分かもしれません。」(亀田達也『モラルの起源』P112)

功利主義が共通基盤(※メタモラル)になり得るとグリーンが考えるいちばんの理由は、功利主義には固有名詞がない点です。功利主義は、自分を含めて誰かを特別扱いすることなく、人々の平等を前提として「幸福」の総量を最大化しようとする考え方です。・・・このクールな計算プロセスはすべての人に等しく開かれており、それゆえに、「部族」の境界を超えて皆が使える「共通の通貨」になり得る、と(※グリーンは)言うのです。」(亀田達也『モラルの起源』P164)

 

ベンサム功利主義(utilitarianism)は、元は法律のための論理で、規範の話ではなかった。と加藤尚武氏の講義で聞いた覚えがある。専門ど真ん中ではなさそうだけど。

 

Feighner Criteria, RDoC

The Development of the Feighner Criteria: A Historical Perspective
http://ajp.psychiatryonline.org/doi/abs/10.1176/appi.ajp.2009.09081155
によると、Feighnerさん達は、網羅的に文献を読み込み、時間かけてまとめたらしい。

 

now-hereに留まる声のやり取りが、かろうじて文字になった時代から時が経ち、文献を元に構成された統計的な単位によって分節=文節されていく。文字で構成された単位は、統計的な思考として役に立つものの、その「実体」はno-whereだった。

 

文字と文献に支えられた精神医学とは、科学、つまり社会科学の一部門であり、それはアフリカ大陸を見るときに、地形や大気の流れではなく、まずは旧宗主国・緯度経度に規定された国境線から考えることに近い。

 

社会科学と自然科学は、どう分けられるかと言い出すと難しそうだけど、科学(sci-ence = 分割)という言葉を、社会科学と自然科学に分けて考えるのは、一部領域では議論の整理にはなりそうな。スノーとコッホの話の繰り返しだけど。

 

統治機構主義者(state-ist = statist)の形容詞としての統計値(statistic)と、それに基づく統計的(statistical)管理。statistical diagnosisとしてのDSM=SDM。国家や官僚という響きが否定的な「空気感」のもとでは否定的なニュアンスになるが、しかし、空気を切断して、国家規模で見ると、多くの人が標準的な水準を享受できるシステムを構成している。これは声の文化では難しい。官としての医はミクロで見ると硬直的だが、マクロで見ると違った価値がある。

 

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プラトンがかれの「国家」から詩人を排除したということは、ホメロスのなかにはくりかえしあらわれていた素朴で累積的、並列的な、声の文化にもとづくスタイルの思考を、プラトンがしりぞけたということである。かわりにプラトンが支持したのは、世界と思考そのものののするどい分析ないし解剖であり、そうしたことは、ギリシア人のこころにアルファベットが内面化されることによって可能になったのだった。」(WJ. Ong『声の文化と文字の文化 The Technologizing of the Word』)

 

Feighnerがかれの「診断基準」から精神分析を排除したということは、精神療法のなかにはくりかえしあらわれていた素朴で累積的、並列的な、声の文化にもとづくスタイルの思考を、Feighnerがしりぞけたということである。かわりにFeighner が支持したのは、精神と思考そのものののするどい分析ないし解剖であり、そうしたことは、精神科医のこころに文献が内面化されることによって可能になったのだった。

 

Googleがかれらの「ウェブ」から人力を排除したということは、書字のなかにはくりかえしあらわれていた素朴で線分的、直列的な、文字の文明にもとづくスタイルの思考を、Googleがしりぞけたということである。かわりにGoogleが支持したのは、世界と思考そのものののするどい数字化ないし機械化であり、そうしたことは、シリコンバレー人のこころにAlphabet社が内面化されることによって可能になったのだった。」(WJ.Omg『文字の文明と数の機械技術 The Technologizing of the Number』)

 

NIMHがかれらの「RDoC」から精神科医を排除したということは、文献のなかにはくりかえしあらわれていた素朴で線分的、直列的な、文字の文明にもとづくスタイルの思考を、NIMHがしりぞけたということである。かわりにNIMHが支持したのは、精神と思考そのものののするどい数字化ないし機械化であり、そうしたことは、生命科学者のこころにデータベースが内面化されることによって可能になったのだった。

 

声の文化としての心霊療法
文字の文明としての精神医学
数の科学技術としての神経科学

Paradigm Lost

主なるジョブズはシリコンのちりでiPhoneを造り、命の息をその半導体に吹きいれられた。そこでiPhoneは生きた者となった。

主なるジョブズは言われた。iPhone SEがひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう。iPhone SEを深く眠らせ、眠った時に、そのホームボタンの一つを取って、その所をOLEDでふさがれた。

iPhone SEは言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。iPhone SEから取ったものだから、これをiPhone Xと名づけよう」。

それでiPhone SEはその父と母を離れて、iPhone Xと結び合い、iPhone SEXとなるのである。
iPhone SEiPhone Xとは、ふたりともカバーがなかったが、恥ずかしいとは思わなかった。

iPhone XがAppleを見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいたiPhone SEにも与えたので、彼もAppleを食べた。

すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、シリコーンをつづり合わせて、カバーにした。

主なるジョブズは言われた、「見よ、iPhoneはわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、Appleからも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。

そこで主なるジョブズiPhoneシリコンバレーから追い出して、iPhoneが造られたその土を耕させられた。

これが半導体機械による有性生殖の始まりである。

自分自身との共生の作法

chino otsuka

昔の自分と、今の自分を同じ平面に並べた写真が、なかなか良い。


以下、とある寄稿より改変
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思春期~青年期は、脳自体が生物学的にダイナミックな変化を起こす時期であると同時に、恋愛や家族からの自立、就職などによる社会参加といった心理的な負荷が大きい時期でもある。まだ身体的な完成を見る前という生物(ヒト)としても感受性が高い時期に、人間として様々な出来事が生じる。新しい出来事によって、これまで付き合ってきた自分自身の気づかない側面が出てくるが、中には強く不快であったり、理解不能だったり、ものによっては危険だったりする。

「私とは他者である」(アルチュール・ランボー

自身の気づかない面は、色々な場面で出てくる。自身の気づかない面が出てくることは、一瞬一瞬としてあるだけでなく、振り返ってみれば、昔の自分は今の自分にとって一種の他人といえる。人生として流れる時間をt、現在に至るまでの総時間をTとし、これまでT/Δt = N人の「自分」がいた、というように分割して考えてみることができるだろうか。過去の自分は現在の自分に対して何らかの影響を与えているが、同時に現在の自分は過去の自分に対して「解釈」という影響を及ぼす。過去の自分は客観的には変わらなくても、捉え方が変わることで、主観的に変容する。(逆に、過去の自分は現在の自分に客観的に影響が与えていそうでも、主観的には感じ取れず、無関係のように感じられていることもままある。)現在の自分から見ると、昔ほど重みが小さいように思えるが、必ずしもその影響は直感に従わなかったりするのが難しい。


非対称な「N人の自分」が経時的に存在する。このN人を同じ平面に並べてみて、そのN人の自分との共生を考えるという作業を想定することができる。「私」という何人もの他者と、自分自身がどう付き合っていくか。精神的不調という現象は、コントロールできない他者としての性質が特に強く自身に表れる場面として捉えることができるだろう。自意識(自我)ではどうにもならない他者としての自分(自己)が出現したときに、その他者=自分とどう付き合っていくか。どういう関係を築いていくことができるか。自我や自己を確立するという意味での自立とは、自分自身との共生の作法を習得するという作業なのかもしれない。自分自身との共生・共存的な関係を構築することで、individuus (indivisible) という意味でのindividual(個人)になっていく。


人によって自分自身に対する理解の度合いは様々だ。おそらく学問的・知的な理解水準と自分自身に対する理解の水準は正に相関するのだろうが、きれいに一致するわけではなく、学問的には優れている一方で、自分自身の状態や歴史についてはほとんど興味や理解がないという場合もある。自分自身に高い関心があるというのが必ずしも理想的なわけではないが、身体症状から感情まで自身の状態を把握していないというのは、メーターなしで自動車を運転するのに近いものがある。


このような作業を自力で十分できる人も多いが、他人との関わりの中で身に着ける人もいる。他人との関わりの中で、自分自身と対話する過程を身に着けていくというのが一つの理想の形といえる。人生が続く限り、自分との付き合いは終わりがないから。


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法律が文字通りの他者(他人)との共生・共存を支えるシステムであり、文字という形で明文化されることを基本とするのに対して、精神保健は自分自身との共生・共存を支えるシステムであり、声という形で対話的になされると対比できるだろうか。「リベラリズムとは探求の非終局性を承認するが故に他者との終わりなき対話を引き受ける一つの覚悟のことである。」(井上達夫『共生の作法 会話としての正義』第5章会話としての正義)という一文を借りて表現するならば、「探求の非終局性を承認するが故に自分との終わりなき対話を引き受ける一つの覚悟のことである。」といえるかもしれない。

natural-native-naive language

国語というのも面白い表現で、国籍境界と言語境界が一致しないことはままある。nation=言語共同体(出版=文字による紐帯)とすると、言語共同体をまたいだ統治機構の支配 (state/government) が帝国 (empire) で、nationと一致したstateがnation-stateというようにも捉えられるだろうか。少なくとも出版によって支えられた単位であれば、言語によって支えられた単位とも言えそう。


言語=貨幣というのも確かにリアリティある。言語による紐帯と貨幣による紐帯(マネーゲーム - ideomics)。言語が違うと、共同体意識は自然には持ちにくい。知とか価値とかその他の媒介・媒体がなければ。nationalismを、言語紐帯主義と訳す(解釈する)と、一種の結合・愛着の求めともいえる。言語紐帯を求める心性。


直接的な交わり*1は、社交認知能力や物理的距離の制約がある。相手の同意は一番大きなハードル。力づくに近い関係も多い。直接的な交わり (inter-course) を経ずに済ませるdis-courseはヒト世界の発明だ。直接的な関わり合いを部分的にスキップする媒介・媒体として、貨幣や法や知やゲームその他がある。直接的な関わり合いをせずに関わるプロセス、社会的 (societal) な関係の創造。


言語は、ある程度は再結合的 (re-ligious) なものでもあるが、生まれに制約されやすい。言語は自然に覚えるものではなく、環境から身についていくものだから。個人にとって、母語は、実際に「自然 (nature)」と言えるくらいのものであり、まさに、native language = natural language (母語自然言語)。一個人にとって、自然言語には自然といえるほどに超越的なものが含まれているとは、果たしていえるだろうか。

「土着性、友愛、ドクサというのが、三つの根本的特徴であり、哲学がそれのもとで生まれかつ発達する条件である。哲学は、頭のなかでは、これらの特徴を批判し、克服し、修正しているかも知れないが、依然これらの特徴のうえに指標をつけられたままでいる。」(ドゥルーズ『批評と臨床』プラトンギリシャ人たち)

土着性・・・生まれ(native)の言語によるnaiveさ。思考は言語に縛られる。nativeな言語以外で行う難しさ。そして、言語は生まれた土地に規定される。さらに、その土地が属する国 (nation) にも規定されるnationalな要素もある。そんなnaiveな存在。natural-native-naive language.と、それに支えられる思考のnaiveさ。

*1:直接的な関わり合いの最たるものは性交inter-course

マネー=ゲーム

お金って、日本銀行券とか言い換えてみると、正にも負にも強い思い入れを持たずにすむ方向に、認知(ひいては感情)を動かせる。cognitiveを変えて、valenceが結果的に変わり、behaviorも変わる。通貨(currency)によって、流れ(current)ができる。個体=固体から、液体・気体の流れができる。流れるプールのように、淀みではない流れができる。


マネーの本質として「ゲーム」を観る。マネーゲームというより、ゲームとしてのマネー。
ゲームの規則 - ideomics
マネー=ゲーム=エッジによって、人=ノードが結び付けられる。貨幣が1種類ならエッジも1種類だが、貨幣がN種類になるとエッジもN種類に。貨幣も一種の商品だけど、やはり特別な位置づけ。マネー=ゲーム=エッジによって拡張される世界。同僚と、ヴィトンなんかが貨幣発行したらどういう感じになるんですかねという話しをしたのを思い出す。貨幣の背景にある信用とか信頼、ブランドとか憧れ、あるいはマナとしての性質といったものの形が浮き彫りになってくるのかもしれない。マネー=ゲーム=エッジによって、社会的 (Societal) な関係が創造される。信用が創造される。

「貨幣=法 (lex) は人間と人間をつなぐものであり、相互の同意によって生まれるのである。」(アレント『政治の約束』より一部改変)


また、マネー=ゲームの規則によって、規則に従属することで、主体化を行う。元いた世界とは違うルールを覚えることで、従属=主体化を行い、自由を拡張する。「都市の空気は人を自由にする」・・・都市を市場と捉えると、都市化=市場化=貨幣化=主体化=自由化=個体化。


貨幣という媒介・媒体が、純粋な媒介(情報=数値と暗号)になって、物質的な媒体から自由になりつつある。媒介としての機能は、価値の数字化と暗号によって果たされる。その中で、バンカーという「人間的、あまりに人間的な」存在はどういう位置づけになっていくのだろうか。信用を創造する主体なのか、あるいはそうではないのか*1。純粋な数字と暗号でも信用創造がなされるならば、人間はそこに必要だろうか。単なるユーザーとして機能すれば良いのだろうか。


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ATPは生命の通貨と呼ばれたりする。貨幣やエネルギーを中心にみると、生命の中心にあるのはDNAというよりATPなのか。ATPはDNAを構成するアデノシンの派生でもある。記号としてはA・・・まさに最初のアルファベット。生命・言語・貨幣:
言語=コード=ATCG
貨幣=ATP
貨幣=数字=ATPは、言語=文字=DNAの一部であり、そのアルファなのか。そうでないのか。それが問題だ。