ideomics

オブジェクト思考ブロギング

Active-Responsive-Passive framework:欲望と愛着と快楽

Anticipatory pleasure (AP, wanting) とConsummatory pleasure (CP, liking)*1
価値分析には、Anticipatory pleasure (AP) とConsummatory pleasure (CP)の区別が重要。自分の持っている価値観、相手の持っている価値観、それを包む環境(社会)で主流の価値観の分析。APとCPがごっちゃになると、しばしば不幸をもたらす。例えば、

・本来CPであるものをAPとして追求してしまう不幸(勘違い1):青い鳥
・自分にとってはCPにならないものをAPとして追及してしまう不幸(勘違い2):隣の芝生
・APが過剰でCPが抑制される空虚感:過成功
・CPだけで安住してしまう緩慢な死:過満足


Anticipatory pleasure (AP) が強いと、時間感覚が未来に伸びる直線的なものになり、Consummatory pleasure (CP) が強いと、常に満たされ無時間的・円環的な時間感覚になるという時間感覚の差の説明になったりしないかと思ったり。


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Anticipatory Pleasure (AP, wanting) とConsummatory Pleasure (CP, liking) という分け方を拡張して、

欲(欲望): wanting, Anticipatory Pleasure (AP): active(能動的)
好(快楽): liking, Consummatory Pleasure (CP): passive(受動的)
愛(愛着): loving, Responsive Pleasure (RP): responsive(反応的)

というフレームワークで考える。欲 (wanting, Anticipatory Pleasure) と好 (liking, Consummatory Pleasure) を媒介するものとしての愛(loving, Responsive Pleasure (RP))。欲望と快楽を媒介するものとしての愛着。もちろん、これは博愛(アガペー)としての愛ではなく、もっと日常にありふれたものとしての愛。Love actually is all around.なものとして。


例えば、物に対して:物欲(AP)・物好(CP)・物愛(RP)
物欲(wanting, Anticipatory Pleasure)というよく聞く言葉に対して、物好(liking, Consummatory Pleasure)を考える。物に接することによる快楽のこと。そして、物愛(loving, Responsive Pleasure)・・・物に対する愛着って結構ありふれている。快楽を得ることにより、愛着が湧き、欲求が起こる。また、欲求により得ることで快楽が得られる。例えば、土屋鞄の財布と筆箱買ったら、妙に良い感じで、愛着が湧く。愛着湧くようなプロダクト作っているところは、制作過程でも愛着豊かそうな想像をする。


例えば、性について:性欲(AP)・性好(CP)・性愛(RP)
性欲(wanting, Anticipatory Pleasure)は、物欲以上に悩ましい。性の快楽を味わうことで性好(liking, Consummatory Pleasure)が生まれうる。性欲>>性好になると空廻る、あるいは攻撃的になりすぎる。性好>>性欲だと受動的すぎ、あるいは従属的すぎることも。快楽によって愛着が生まれ、欲望が生まれるという循環としての性愛。


欲望によりヒトは能動的(active)になる。快楽だけで欲望がなければ受動的(passive)。能動=受動としての反応を考える。反応は能動でもあり、受動でもあるが、同時に、そのどちらでもない。能動的でもあり、受動的でもあると同時に、そのどちらでもないものとしての反応的(responsive)。人間関係でも、能動的か、反応的か、受動的か、という個性がある。個人で一定ではなく、個人間の関係ごとに変わるものだが、個人である程度一定するところもあるようだ。

active - responsive - passive
Anticipatory Pleasure - Responsive Pleasure - Consummatory Pleasure


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psychiatry/psychiatristのアプローチ:bio-psycho-socialを、そのエートスを重ね合わせると、
bio: 能動的に変容させようとするactive
psycho: 反応的に変化をもたらすresponsive
social: 受動的に受容するpassive
といったように。これは学問的な対象ではなく、関わる主体(ヒト)の関わり方(エートス)の話。単なる重ね合わせでしかないけれど、知を客体として捉えるのではなく、知の主体(の主観・感情傾向)から捉えるアプローチ。関係論としての、bio-psycho-social=active-responsive-passive


あるいは、
自己と他者:自己愛について - ideomics
にならって、

思考・行動する<私>(自我・自意識):能動的 (active)
対話的な<わたし>(自省):反応的 (responsive)
経験・受容する<ワタシ>(自己・存在):受動的 (passive)


active voice(能動態)
passive voice(受動態)

"In a Different Voice"
reflexive voice(中動態・反射態)

erosophia (eros-sophia)

「問題構成のこの点(いかにして快楽の客体を、自分の快楽を支配する主体となすか)こそを、哲学的なエロス論、いやともかく、恋にかんするソクラテス的でプラトン的な省察はその出発点とするだろう。」(フーコー『快楽の活用』真の恋)

「『饗宴』と『パイドロス』が示しているのは、<<口説き>>の実践と相手の自由とを範例にするエロス論から、主体の何らかの鍛錬と、真理への、歩調を合わせた接近とを中心にすえるエロス論への移行である。まさにそれゆえに、問いかけが移動しているのが見出されるのである。」(フーコー『快楽の活用』真の恋)


philo(philia)-sophia(友愛-知)・・・知との友愛と解釈すると、知との節度を持った関係と言えるし、友愛に関する知、友愛をもたらす知、知を通した友愛とも言えるか。『ラケス』で、会話・対話のことを「我がものをあなたのものとし、あなたのものを我がものとする」みたいな表現がある。知との友愛・・・友人とは客観的に理解できる存在でもあり、主観的に思い入れる存在でもある。


ero(eros)-sophia(性愛-知)・・・知との性愛と解釈すると、知との融合的関係(主体化)と言えるし、性愛に関する知、性愛をもたらす知、知を通した性愛とも言えるか。オブジェクト(客体)指向/志向な思考=知としての科学に対するサブジェクト(主体)指向/志向な思考=知としてのerosohia (eros-sophia)。知の主体化(subject=主体=従属)。philo-sophiaからの分岐としてscience(オブジェクト思考)とerosophia(サブジェクト思考)を捉える。最近は良いなと思った一節は写経するようにしてるけど、明らかに理解の水準が黙読と違う。主体化=従属という染み込み度合いが違う。eros的なerosophia。書くと読むの間には翻訳や写経がある。能動(書く)・受動(読む)の中間にある反応的な行動。能動・受動・反応における反応=eros。

「すなわちそこでは、sophia=女性=妻は最高度の他者として価値が付与されているが、しかし夫は、彼女を自己との統一単位を形作る者としても認識しなければならない。」(フーコー『自己への配慮』夫婦の絆、一部改変)

sophia(知)を妻=配偶者として、つまり、他者でありかつ統一体として、性愛的関係を結ぶ。


敬愛は、友愛(philia)と性愛(eros)の間にある感じ。性愛と違って、複数人に持っていても問題は起こりにくい、という利点がある。性愛の場合はアタッチメント強いけど、デタッチメントが難しい・・・知との関係は、主体 (subject) 化=アタッチメントと客体 (object) 化=デタッチメントの繰り返しがおそらく望ましい。主体化=erosphia(実存との一体化)と、客体化=scienceの繰り返し。erosophia - philosophia - science


philo-sophia・・・知と友愛・敬愛。知による友愛・敬愛関係とすると、固有名詞=個有(個人)名詞での関係になる。固有名詞の系譜関係=系譜学=genealogy=家系学。客体化された知としてのサイエンスと対比的に、固有名詞と系譜が伴う。そこでは、〇〇学を学んでいる、というより、誰それから学んでいる(学びあっている)、という表現になる。

「個有」名詞 - ideomics
人と人間 - human being and human inter-being - ideomics

〇〇学などというものはない。誰それがいるだけだ。敬愛をエロス(erosophia)寄りに解釈すれば。例えば、ドゥルーズの自由間接話法って、他者でありつつ融合しているエロスな感じ。philosophiaというよりerosophia、またはその間にあるもの。エロス・・・異性愛に限定せず無性愛な性愛。*1

「すなわちそこでは、sophia=思想家=妻は最高度の他者として価値が付与されているが、しかし夫は、彼女を自己との統一単位を形作る者としても認識しなければならない。」(フーコー『自己への配慮』夫婦の絆を一部改変)

「妻であるひとりの思想家との関係が、当方の生き方にとって本質的である場合、そして、人間存在とは夫婦としての個人であり、・・・夫婦であることの術は、自己の陶冶の一部である。」(フーコー『自己への配慮』夫婦の絆を一部改変)

・・・まさにマリアージュ。けど、本物の結婚から見ると半分にも満たない。相手のどうしようもなさがないから。結婚の半端なシミュレーション。

「土着性、友愛、ドクサというのが、三つの根本的特徴であり、哲学がそれのもとで生まれかつ発達する条件である。哲学は、頭のなかでは、これらの特徴を批判し、克服し、修正しているかも知れないが、依然これらの特徴のうえに指標をつけられたままでいる。」(ドゥルーズ『批評と臨床』プラトンギリシャ人たち)

「身体性、性愛(家族)、愚かさというのが、三つの根本的特徴であり、教育がそれのもとで生まれかつ発達する条件である。教育は、頭のなかでは、これらの特徴を批判し、克服し、修正しているかも知れないが、依然これらの特徴のうえに指標をつけられたままでいる。」(プラトンアカデメイアンたち)


一方で、サイエンスという客体(オブジェクト)思考。自然が超越的なものとすれば、それへの志向性/思考性は、agapeという概念が使えるだろうか。例えば、

erosophia:性愛:主体化・結婚
philosophia:友愛・敬愛:系譜・家系
サイエンス=agape-sophia=agaposophia?:超越的なもの=絶対の他者へ*2

といった感じで。どうだろうか。

*1:ガタリとの共著は未読だけど、近いのかも。

*2:「政府性、博愛、誤りというのが、三つの根本的特徴であり、科学がそれのもとで生まれかつ発達する条件である。科学は、頭のなかでは、これらの特徴を批判し、克服し、修正しているかも知れないが、依然これらの特徴のうえに指標をつけられたままでいる。」

自己との責任 responsibility = responsivility

自己と他者:自己愛について - ideomics
の補足

「epimeleia heautou(自己への配慮を意味するギリシャ語)、cura sui(自己への配慮を意味するラテン語)は、多くの哲学教義のなかにくり返し見出される一つの命令である。」(フーコー『自己への配慮』自己の陶冶)

哲学(philo-sophia)=知への志向/思考=思考過程=自問自答
として、
自問自答=I ask, Me respond. Me ask, I respond...
と捉えてみる。
response - response' - response'' - .....
としての自己反応の連続=自問自答=思考=哲学(philo-sophia)。

エピクロス派の哲学者たちの場合には、『メノイケウスあての書簡』が、哲学というものは自分自身への気配りの絶え間なき営みと見なされるべしとの原則へ道を切り開くものであった。」(フーコー『自己への配慮』自己の陶冶)

自己が自我に応答する、次の自我が自己(昔の自我)に応答する、・・・(以下同)・・・の循環。過去から未来に向かって反応(response)=反射(reflection)を繰り返す。合わせ鏡の連続反射に似ている。私は次の自分(小さな他者)を待ち続けている・・・ゴドー(God-ot)を待ちながら・・・God と God-ot の差:-otはフランス語で、「ちっぽけな」を表す接尾語らしい*1。内省(reflection)とは、実際に反射(reflection)である。

「哲学者の学校とは診療所(iatreion)である。卒業時の感想は、楽しかった、ではなく、苦労した、でなければならない。」(フーコー『自己への配慮』自己の陶冶)

自分が自分に反応する。その反応能力(response + ability)や反応性能(responsive -> responsivility )が、自問自答としての思考を規定する。哲学=思考=自問自答とは、自己との反応性能(responsivility)、自己との反応能力(response + ability)によって支えられている。哲学とは、自己との責任 responsibility (response + ability) = responsivilityを学ぶ過程と言えるだろうか。


自己との責任 responsibility (response + ability) = responsivilityを学ぶ過程で、自分自身との親密圏を築くことができる。自己愛を学ぶ家庭ともなる。それによって、自らの魂を癒やすことになる。哲学者の学校とは、自己愛を学ぶ過程=家庭であり、それは診療所でもある。哲学(philo-sophia)・・・魂(psyche)を癒やすこと(iatreia)、何よりもまず自分の魂(psyche)を癒やす(ケア=配慮する)こと・・・psyche + iatreia = psychiatry・・・自我と自己の反応性 (responsibility = response + ability = responsivility) としてのpsychiatry。能力と反応性と責任。


自己への配慮 (性の歴史)

自己への配慮 (性の歴史)

*1:人が認識できるのは文字通りの無限ではなく、無限とも思えるような多数

『ラス・メニーナス=ラ・ファミリア』 "Las Meninas = La Familia"


(Diego Rodriguez de Silva y Velazquez, 1656)


国王夫婦を視座として、夫婦がともに鏡にうつり、視界の中心にあるのは夫婦の娘、周りにいるのは娘の親密圏を構成する人々。家族とその視座の表象。子供からの視点というのは概して考慮されにくい・・・けれど、鏡に映る夫婦の姿は子どもの視点から見た姿でもある。子どもの認識と行動によって自分たちを認識する、まさに子は親の鏡。しかし、うすぼんやりしている。


Las Meninasは、『女官たち』と訳されるようだが、視点の中心(国王夫妻)や視界の中心(王女)といった構図の中心ではない周囲の人々が題名の中心になっている。当初の題名は、"La Familia"(家族)だったらしい。家族を狭く取ると、夫婦と娘の3人。女官とは排他的に定義される。一方で、Google翻訳によると、meninasは女の子たち (girls) に相当するらしい。Las meninasの意味する人物は誰から誰までだろうか・・・そしてこの題名が意味するものとは。

「最も基本的なものとして現れる、他者との関係は、この模範(モデル)においては、血縁関係でもなく友愛関係でもない。結婚という制度上の形式のなかで、しかもそれに重ね合わされる共同生活のなかで組立てられる場合の、それは男と女の関係なのである。・・・存在論的でもあり倫理的でもある、自然な特権が、ふたりのあいだのこの異性愛関係には与えられている、ただし他のすべての特権は犠牲にしたうえで。」(フーコー『自己への配慮』夫婦の絆)


ラス・メニーナス』・・・人間が主体であり客体となる表象としてフーコーが用いていたFigure 1。振り返ってみれば、主体=客体に位置するのはhomme (man)だけでなく、femme (woman)と一体化されたペアであり、性別だけでなく一個体ではなく二個体であった。この一体化された二個体が、自分たちの娘を中心とした「女の子たち」を見る。夫婦と娘の親密圏の関係論としての、"Las Meninas = La Familia"・・・女官たちでもあり、女の子たちでもあり、家族でもある。家族とは何だろう。家族とは一見血縁家族を意味するように思えるが、その家族の中心である夫婦とは、(多くの場合)非血縁的な結合である。家族の中心には、非血縁的な結合がある。

「女房、妻であるひとりの女性との関係が、当方の生き方にとって本質的である場合、そして、人間存在とは夫婦としての個人であり、その自然はふたりで共有する生活の実践のなかで実現されるのであれば、人が樹立する自己との関係と他者にたいして作り出す関係とのあいだには、本質的かつ根本的な不調和はありえないだろう。夫婦であることの術は、自己の陶冶の一部である。」(フーコー『自己への配慮』夫婦の絆)


「夫婦としての個人」・・・個人とは通常一個体を指すものだが、ここでは二個体=個人となっている。二個体が、in-dividual(分割できないもの)として定義される。夫妻が夫妻を鏡で認識する。自己認識(自分に対する認識、自分からの認識)に他人の認識(他人に対する認識、他人からの認識)が巻き込まれ、他人の認識に自己認識が巻き込まれる。自己認識と他人認識の巻き込み(折りたたみ、反射reflection)がある。自己認識と他人認識は互いに反射的 (reflective)。そこでは分割線をどこに引けば良いのか。

「自己陶冶における結婚というこの主題系の、つまり一つの哲学全体が展開してきたようなこの主題系の逆説は、以上のとおりである。すなわちそこでは、女性=妻は最高度の他者として価値が付与されているが、しかし夫は、彼女を自己との統一単位を形作る者としても認識しなければならない。」(フーコー『自己への配慮』夫婦の絆)


自己と他者:自己愛について - ideomics

時間的に、自我と自己は反射的 (reflective)。空間的に、自分と他人との関係が、自分(自我、自意識)と自分(自己、実存)との関係に折り返され、自分と自分との関係が、自分と他人との関係にまた折り返される反射的 (reflective)。内省=内政と外向=外交。内省=内政が、外向=外交に折り返される。時間的な自我と自己との関係(内省=内政)に対して、空間的に自分と他人との関係(外向=外交)がある。自我と自己との関係(内省=内政)は、自分と他人との関係(外向=外交)に反映され、また逆に、自分と他人との関係(外向=外交)が、自我と自己との関係(内省=内政)に反映される。二重の反射 (reflection)。


端に位置しながら、実際にこの絵画を描く画家は、同時に国王夫妻の位置にも位置することになる。国王夫妻の位置をシミュレーションしながら、「女の子たち (social) 」と「鏡の夫婦 (familial) 」と「自分 (individual) 」を認識し描く。分身するゴーストペインター(ヴェラスケス)が、自らを含めたindividual - familial - socialを表象する。このゴーストペインター=認識するものは、夫妻の位置を借りながら、世界を眺め、自分を眺める。確かにHomo sapiens(認識するもの=Homo sciens/science)である。転じて、自分や他人を一緒に認識する表現としてのHomo XXX。


"mort de l'homme"を『自己への配慮』から振り返ってみると、発見がある。絵画は空間的に再帰的 (recursive) な構造を思わせる表現だが、ヴェラスケス=フーコーの作品としても、時間的に再帰的 (recursive) に思考を誘発させる主題でもある。


自己への配慮 (性の歴史)

自己への配慮 (性の歴史)

自己と他者:自己愛について

「哲学における現実は、自己と自己との関係にある」(フーコー

フーコーの主題:主体・権力・知(→主体化)と並行して、彼が扱ってきた対象:精神医療・刑罰・性・自己を並べてみる。それを関係論として構造化してみると、その中心に浮かび上がるのは「他者」かもしれない。特に、自分自身(自己)の中に「他者」を見ること。自分自身が不可思議な存在になる(思える)こと。

「いまや、自分自身が、自分にとって大きな謎となってしまいました。」
アウグスティヌス『告白』)

『告白』における自己=他者の気づき。一(一者)に亀裂が入って、二項(二者)になるとき・・・「いまや、自分自身が、自分にとって大きな謎となってしまいました。」:大きな謎、未知や超越、制御不能。自分の顔を鏡で覗き込む。これは誰だろう。。。確かによくわからない。不思議な人物が映っている(reflection)*1

「<自己>は時間の中にあり、絶えず変化してゆく。それは、時間の中でさまざまな変化を経験する受動的な自己、というよりもむしろ受容的な自己である。<私>はと言えば、それは私の実存(私は存在する)を能動的に規定する行為(私は思考する)であり、だが、それがその実存を規定し得るのはただ時間の内部においてのみ、自分自身の思考の能動性だけをみずからに表象するような、受動的で受容的で変化してゆく自己の実存としてのみなのである。」
「<私>と<自己>は、したがって、時間の線によって分離されており、この時間の線が、根本的な差異という条件のもとで両者をたがいに再び関係づけるのである。」
ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について)

<私>と<ワタシ(自己)>は、分離しつつ結合している。例えばツイッターSNSといっても、何より自分と自分のソーシャルネットワーク

思考・行動する<私>(自我・自意識):能動的 (active)
経験・受容する<ワタシ>(自己・存在):受動的 (passive)
両者を媒介する対話的な<わたし>(自省):反応的 (responsive)

自分自身の中に他者を見る・・・他者とは何だろうか。他者が存在するというより、主体と別な主体が存在することを他者と呼んでいるだけのようにも思える。自分の思い通りにならない別な主体。言い換えると、未知や超越・制御不能なもの。制御不能性の言い換えか。未知で制御不能である以上、先は読めない。互いに反応的 (responsive) にならざるをえない。スポーツの試合の先が見えないように。テニスのラリーのように。どちらが点を取るか先は読めない。自己=他者とすると、自分自身に対しても、「互いに」反応的 (responsive) にならざるをえない。反応的 (responsive) に反射的 (reflective) に。


反応 (response)とは、受動的 (active) でもあり能動的 (passive) でもある。受動=能動としての反応。動的世界の微分としての反応。反応する能力(response + ability)・・・時間や能力やらが有限な中で、どういう反応能力(受動=能動)を持つか、持ちたいと思うか。あるいは、responsiveである性能としてのresponsivility(反応性能)はどのくらいか。

「自己愛については何ひとつ語られていなかったように見える。しかし、『隣人をあなた自身のように愛せよ』と言われているとき、同時にあなたの自分への愛が除外されているのではない。」
アウグスティヌス『告白』)

自己=他者。その不思議さを前提にした自己愛という形。隣人の前に、自己への愛が問題だ。


自然哲学から自己哲学へ:自己のテクノロジー
正確には、自己に自然(未知、超越、制御不能)を見ること。

・自己の認識(self-recognition:知)
・自己の監視(self-monitoring)
・自己の統治(self-governance:狭義の権力)
・自己の契約(self-contract:法)
・自己の経営(self-management)
・自己の解釈(self-interpretation)
・自己の配慮(self-care)
・自己の受容(self-acceptance)
・自己の開示(self-disclosure:告白)
・自己の対話(self-dialectics)
・自己の分裂(self-division:未知)

信頼のレッスン - ideomics
実存方程式 - ideomics


自我(自意識)と自己(内なる他者)の関係。<私>と<ワタシ>の関係。例えば自己の統治。

「自己にかぶせるかたちで力を折り畳むことにより、そして力を自己との関係のなかに注ぎ込むことによって、ギリシア人は主体化を発明したのです。・・・だから、もっともすぐれた人間は自分自身に向けて権力を行使する者だということにもなります。」(ドゥルーズ『記号と事件』ミシェル・フーコー


自我(自意識)と自己(内なる他者)の関係。<私>と<ワタシ>の関係。テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼばりに統合していくプロセスも強力だが(自我による統治志向)、分割は分割のままでいいじゃん、というのももちろんあり。分割は分割のままで。アポリアアポリアのままで。他者は他者のままで。自意識(自我)と内なる他者(自己)との関係。自意識による統治を重んじるか、他者の受容(未知の受容)を重んじるか。いろんなパターンがある。


自己を知り、その関わりあいの中で生まれる自己愛。知への友愛(philo-sophia)→自己知への友愛→自己への友愛(philo-heautou)という友愛の変遷もそのひとつのアプローチ。自己愛に至る道はさまざまにある。自己肯定感を育むにはどうしたら良いか?とよく聞かれて、いや俺が知りたいよ、と思いつつしばらく考えていたが、ひとつのアプローチではありそう。<私>と<ワタシ>の関係をとりもつ<わたし>。内省(自己との対話、reflection)の産婆術とは?

「哲学者の学校とは、診療所(iatreion)である。」(エピクテトスフーコー『自己への配慮』より)
「きみ自身の内部にあるという条件のもと、喜びはいっぱいであろう…きみ自身の元手によって幸福であれ。何なのか、その元手は?…それはきみ自身だ、きみの最良の部分だ。」(セネカ、同上)

哲学・・・魂(psyche)を癒やすこと(iatreia)、何よりもまず自分の魂を癒やす(ケアする)こと・・・psyche + iatreia = psychiatry


自我の知らない自己。<私>の知らない<ワタシ>に対する反応する能力・・・反応能力 (response ability)。<私>の知らない<ワタシ>に対する反応性能 (responsivility)。自己への責任 (responsibility) とは、自己への反応能力 (response ability) であり、反応性能 (responsivility) である。反応能力 (response ability)・反応性能 (responsivility) としての<わたし>。


内省=内政(reflection)と外向=外交。内省=内政が、外向=外交に反映される(reflection)。時間的な自我と自己との関係(内省=内政)に対して、空間的に自分と他人との関係(外向=外交)がある。空間的に、自我と自己との関係(内省=内政)が、自分と他人との関係(外向=外交)に折り返される。内省的な私と外向(社交)的な私は、互いに反射的 (reflective)な関係。


イエスの福音公理:①神を愛せよ、②隣人を愛せよ、の中間項(直線上の中間、または直線外の中間、または媒介項)としての「他者」概念。「まったくの他者」(無限・神)から「具体的な他者」(有限・隣人)へ。他者概念はなかなか扱いが難しい。愛着は関係あるけど、還元はできないと思うし。ひとまず、「隣人をあなた自身のように愛せよ」の「あなた自身」を他者=媒介項として扱うことから始める。主体化=他者化(自我の知らない別な主体としての他者)としたら、さすがに問題あるか。とはいえ、ひとつの仮設的な仮説として。

*1:そいや、西洋美術専門の先生に聞いた話だと、現在記録上確認できている最初の自画像はローマのマルティアという女性(紀元前)・・・おそらく画家の娘のものらしい。プリニウスの記録によるがモノは残っていない、と。現代でもセルフィーて女の子が多いね。

human & humor: Homo AND & Homo OR

humorって、ラテン語の"body fluid"みたいな起源らしい。固体=個体ではなく、流体=気体=pneumaticってことか。間に空気=霊=光・音を含むこと。笑い声・・・発声というより空気の動きの発生。声とは違う。言葉や言語とは違ったものとして、純粋な空気の振動を生み出す・・・pneumatic(空気的=霊的)。verbalから言語を飛ばして、vocalになると、空気の振動へとより純粋に、流体的になる。


human=ヒト個体=固体(solid=somatic)
humor=ヒト流体(fluid=pneumatic)


個体=固体から、空気によって(pneumatic=霊によって)、流体になる。分割できない一体性がある。祝祭的。神秘主義の説明の一つ。しかし、危険性も大きい。祝祭の過剰になると、謝肉祭にスケープゴートが求められる。神経細胞の活動電位が同期するように、ヒト個体の活動も同期する。pneuma=空気=光音匂=霊によって。pneuma=光と音の波長で同期しすぎると、危険なこともある。同調圧力(実に気体的な力)による弊害もある。


一方で、神経細胞は同期によって脳部位間の伝達をしていくとか(海馬→皮質など)。ヒトも同期=模倣によって伝達や学習をする。特に子供に顕著だ。幼児は、実にpneumatic(霊的=空気的)な生き物である。空気を読む(read)ことと、空気を書く(write)こと・・・発する音(空気の振動)、発する光(反射光)、発する匂い(体臭)、身振り手振りによって空気を書く。文字通り空気をかき混ぜる。同期(同級生)との同期から脱する時期としての思春期・・・同期と個体化のせめぎ合い。個体としても集団としても問題が噴出してくる時期。


human = hum - and (AND) = homo + AND*1
humor = hum - or (OR) = homo + OR


homo sapiensやhomo XXXXといった表現に連なるものとしての、
homo:ヒト単体(Homo tantum)
homo AND:ヒト「と」(個体と個体のつながり)
homo OR:ヒト「あるいは」(個体が流体化し、別なものへ)

*1:human + D = humand = hum AND = Homo AND, ANDとしての文:DiscouseのD, DialogueのD

"Mort de l'homme=Homo sapiens"

フーコーの"Mort de l'homme"は、「人間の終わり」と訳されることが多い。彼の研究対象としての近代の「人間」像だけでなく、hommeは何を意味するか。femmeは含まれるのか。など色々想像をかき立てるものがある。彼の研究対象だった近代の人間科学。その中の生物学におけるHomo sapiensをhommeとして想定してみる。"sapiens"(賢い)?...リンネ人生最大の、あるいは人類史上最大の一発ギャグ。面白いギャグだったけど、そろそろもうお仕舞いで良くない?と"Mort de l'homme=Homo sapiens"。Homo sapien/insapiens


"sapiens"(正気)?...満員電車に乗る度に、自分って狂ってるなと思う。少なくとも身体に対して適応的な行動はしていない。ある集団の規範に適応的であれば個体としては一時的に適応的でも、集団全体が長期的に適応的な行動をしているとは限らない。Homo sapiens...この言葉に「病識」は感じられるだろうか。Order is disorder, and disorder is order.


集団表現型を、個体表現型と分離して考える。非適応的な行動をする集団では、潜在的に「正気な」個体の行動は非適応的であったりする。Homo sapiens=insapiensであることも。もちろんsapiensかもしれない。宙づり。バイオロジーの延長(拡大)としての"Mort de l'homme=Homo sapiens"。神経科学(バイオロジーの深化)に対して。あるいは「個体」の終焉。「リヴァイアサン」の生物学。population genetics <-> population/corporate phenotype


*********


言語学・生物学・経済学:「人間」が主体であり客体でもある近代の人間科学(としてフーコーが捉えた枠組み)。この三つ組は、哲学・医学・法学の中世的枠組みから、形式知として表現しやすいもの、ロゴスとして表現しやすいものが抽出されてきたようにも見えてくる。一方、表現しにくいものは残ってしまう。少なくとも、医学に関しては、医科学=生物学として形式知が進展していくのが主流だ。表現しにくい残ったものをどう考えるか。

「土着性、友愛(フィリア)、ドクサというのが、三つの根本的特徴であり、哲学がそれのもとで生まれかつ発達する条件である。哲学は、頭のなかでは、これらの特徴を批判し、克服し、修正しているかも知れないが、依然これらの特徴のうえに指標をつけられたままでいる。」(ドゥルーズ『批評と臨床』プラトンギリシャ人たち)

「いのち、こころ、たましいというのが、三つの根本的特徴であり、医学がそれのもとで生まれかつ発達する条件である。医学は、頭のなかでは、これらの特徴を批判し、克服し、修正しているかも知れないが、依然これらの特徴のうえに指標をつけられたままでいる。」(ガレノス、医学者たち)


「やまとことば」(ひらがな)で表現されるものは主体の情緒を表している。英語(alphabet)は科学的対象としての客体の性質。その中間に漢字(江戸時代までの先進国としての中華の文字)を位置づける。中間あるいは直線の外に打つ。生活用語(ひらがな)、人文用語(漢字)、科学用語(alphabet)として。

いのち・こころ・たましい:bio-psycho-social
いのち・こころ・たましい:愛着・内省的自我・他者性=反応性

と考えてみる。