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オブジェクト思考ブロギング

二元論(二分法)の直線の外に点を打つ

論文・散文・詩・・・直線上のスペクトラムに考えたくなるが、実は三角形(円環)なんだ。と、ドゥルーズの文章読むと(翻訳だけど)感じる。論文と詩の中間にあるもの。具象画に対して抽象画というカテゴリーがある。叙事詩や叙情詩(具体詩)に対して抽象詩というカテゴリーがあるとすれば、そんな感じ。これをテキストからズームアウトして俯瞰すると、論理値・言語・光音・・・の円環を想定する。論理値と光音の中間にあるもの。アイヴァン・サザランドの系譜。現代なら落合氏とか。


ヒトって、ついつい二元論で考えちゃう。代表的なのは右・左とか。そして、二分論を二元論と勘違いしてしまう思考の癖がある。とりあえず分けると二分になるけど(認知的クセとしての二元論:さしづめ「うっかり二元論」とでも)、この直線の外に1点打つと、直線的な思考から平面に広がる。二元論という言い方は、二分なだけでなく、元素elementを感じさせて良くない。さすがにそんなに簡単に元素elementは抽出できない。単に現象をあるフレームで分割してるだけならば、二分法。それに+1していくなら、N分法へ。


2点しかなければ直線、その外に1点あれば平面。点を打つことで、次元が広がっていく(N→N+1へ)。二元論(二分法)を統合して一元化(単一化)していくのとは別方向の思考方法。「3人集まると政治が生まれる」とネガティブな含意で言われたりするけど、じゃあ1人だけ、2人だけがしんどくないか、というとそんなこともない。逆に言えば、「政治」を生むには3人必要になる。思考の次元に+1するものとしての、「政治化」するプロセス。


あるいは、物質論(神経科学)と現象論(精神)の二分法(neuro vs psycho)の直線で考えてしまうとき、その外に計算論(数理科学)の点を打つことで、文字通り思考の次元を+1することになる。

ゴーストライター

ゴーストは霊といっても、基本的には死者の霊に意味が限定されるらしい。恐怖や憎悪を投影なこともあるけど、愛情がゆえの残像であることも多いしね。愛着=執着の残像としてのゴースト=霊。ゴースト(死者の霊)が当たり前のように登場人物だったり、案内役だったりする物語がよくあった時代は、世界観が今と違ったことだろう。ベアトリーチェみたいな存在が文学に当たり前に出てくる世界観、単純な迷妄ではない今と違う感性の豊かさがあるのだろう。


ドイツ語では精神はgeist(ゴーストghost=死者の霊)に対して、フランス語では精神はesprit(スピリットspirit=精霊)。単にゲルマンとラテンとしても、文化差が現れているような。死者の霊によって思考するか、精霊によって思考するか。


死者の霊を召喚すること。死者の霊によって。文献とは死者の霊でもある。文献から思考するものは、みな「ゴーストライター」である。そこでは死者の霊は本人と分割できない。文献を紐解くとは、死者の霊を再生する作業なのかもしれない。奥深く読む(intus+legere=intelligence )ことで死者の霊を再生する。正確に言えば、死者の霊を再生するような水準で読む。原文読めない俺が言うべきことじゃないけど。その意味で「復活」とか「再生」の物語を捉えると、そこまでトンデモな話ではない。復活=ressurection=再生=replayとして、イメージの再生を行うこと。文献の反射光で脳のスイッチが入り、イメージが再生replayされること。


文献によって思考し、文献へと志向するものは、ゴーストと分割できない。分割できないもの=individualである。individualとしてのゴーストライター。言うまでもなく、我々は死者の霊とともに生きている。

critique et clinique:『批評と臨床』ジル・ドゥルーズ

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

critique et clinique(批評と臨床)

critique(批評):文献中心
clinique(臨床):人間中心
と捉えて、clinique→critique→clinique'→critique' という運動を考える。critiqueとcliniqueの二重らせん=らせん階段を登っていく。臨床が批評となり、批評が臨床となる地点。二重らせんが捻れてひとつのらせんとなる地点。criticalなclinical、clinicalなcritical、criticalとclinicalの間にあるもの。教育と呼ばれるものの補助線になりそう。


シェーマとして考えると、人中心(human-centered)→文献中心→人間中心(network-centered)。プラトンは文献を残したが、ソクラテス自身は残していないことをどう解釈するか。あるいは、
科学=客体object(文献)としての知の増大:客体としての大聖堂を建てる=脱記名(de-sign)
人文=主体subject(人間)としての知の増大:いわゆる教育にあたる=記名(sign)
と対比して、科学と人文を対比させて考えてみる。


develop = de-velope (undo-wrap)、すなわちunwrapとすると、
critique:文献の可能性を見極めて、それを覆うものを剥がして提示すること…de-velope (unwrap)
clinique:人間の可能性を見極めて、それを覆うものを剥がして提示すること…de-velope (unwrap)
「啓蒙enlightenmentとは何か」・・・develop(発達・開発)=de-velope (unwrap)・・・可能性の中心を光らせること。光を覆うものを外してみること・・・「もっと光を」


敬意するとある臨床家が、精神療法の成分分析で、「自然のもつ力」に注目してたのが面白かった。いわゆる自然環境的な自然から、ヒトの及ばぬ超越的な意味での自然。自然治癒力と言えばそれまでだけど、そこに至るまで一通りの人智を修めているかどうかは大きく違う。「私が包帯し、神が癒やす」というアンブロワーズ・パレの言葉を連想させる。自然の力を、de-velope (unwrap)する。未知としての自然を理という形でde-velope (unwrap)する科学者(神学者)と、力という形でde-velope (unwrap): 潜在的なものを顕在化する臨床家(修道士、シャーマン)

「美しい書物はどれも一種の外国語で書かれている。」(プルースト、『批評と臨床』より孫引き)

critique(批評)=clinique(臨床)によって、知らない自分と向き合う。自分の知らない自己(他者)に出会う。批評=臨床によって、知らない自分と出会う。自分の知らない自己(他者)に向き合うことになる。自国語(自意識)と思っていたところに、外国語(未知な他者)を見出す。自国語の中に外国語を見出す。批評=臨床によって、相手(文献や人)にだけでなく、批評や臨床をしている私自らの中にも外国語(私の知らないワタシ)を見出すことになる・・・日本語のカタカナは外国語であることを端的に示す文字体系*1・・・可能性の中心としての外国語=他者=未知=ナニカ。critique(批評)=clinique(臨床)によってde-velope(unwrap)されるナニカ。clinique = develope = critique。

*1:外国語を内在させる言語としての日本語

実存方程式

自意識(思考)と自己(実存)との対話でΔt→0とすると、"Cogito ergo sum"と「思える」。しかし、実際にはΔt=0ではない。「(瞬間よ)とどまれ。お前はいかにも美しい」といっても、実際に時間は過ぎていく。自意識と実存の一致を志向するものとしての実存志向があるなら、内省でΔt→0とするプロセスは一種の訓練になるかもしれない。自意識(思考)と自己(実存)のラリーを瞬間的に、プロテニス選手のように瞬間的なショットで行うことによるΔt→0。対話を言語に限らず反応し合うプロセスと一般化すると、responsive-responsivilityとは、反応の時間Δt→0とする性能と言えるかもしれない。時間解像度を上げること。平たく言えば集中だけど。

”<記憶>こそは、自己との関係、あるいは自己の自己による情動の、ほんとうの名前である。カントによれば、時間は、そのもとで精神が自己に影響するような形態であった。ちょうど、空間が、そのもとで精神が他のものに影響されるような形態であったように。”(ドゥルーズフーコー』)


記憶。意識と無意識というよりは、記憶=引き出しのアクセシビリティ。すぐに取り出せる記憶から、思い出しにくい記憶、連想によって想起(再構成)される記憶、散逸した記憶。階層的でありつつ、ネットワーク的な記憶の連結。記憶とは、過去が折りたたまれているもの・・・∫dtとしての記憶・・・もちろん散逸するものも多い。たとえば、ツイッターのタイムライン。それぞれのつぶやきが、あるΔtの自我の痕跡で、その総体Σは、別なナニカ・・・現在とは別な自分・・・を見ているようで『告白』(アウグスティヌス)を誘発する構造を持っている。過去の自分(Δtであれ、Σであれ)=ひとつの他者と対面することで、現在の自分が変化する。

「<私>とは他者である……」(ランボー
<自己>は時間の中にあり、絶えず変化してゆく。それは、時間の中でさまざまな変化を経験する受動的な自己、というよりもむしろ受容的な自己である。<私>はと言えば、それは私の実存(私は存在する)を能動的に規定する行為(私は思考する)であり、だが、それがその実存を規定し得るのはただ時間の内部においてのみ、自分自身の思考の能動性だけをみずからに表象するような、受動的で受容的で変化してゆく自己の実存としてのみなのである。<私>と<自己>は、したがって、時間の線によって分離されており、この時間の線が、根本的な差異という条件のもとで両者をたがいに再び関係づけるのである。
ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について)


現在へと、常に過去を折りたたむ。現在(瞬間)には過去が折りたたまれている。そこから次の時間に移行する。re-current=再・現在な私/ワタシ。再現前re-presentと似てる。折りたたまれ続ける現在=過去。松尾先生の啓蒙本では、再帰的・自己言及的な処理が、意識の鍵では?みたいな話が書かれていたが、再帰的recursiveなプロセスでもある。時間によって分離・結合される<私>と<自己>:再結合的re-ligiousな私とワタシ。


意識は時間の従属変数であり、時間こそが独立変数だとして、
自意識=C(t)
記憶=∫C(t)dt
とすると、
d(C(t))/dt=f(∫[0,t]C(s)ds)
という感じだろうか。


処理としてはrecursive、時間的にはrecurrent・・・ヒトの記憶や意識にはそういう趣きがある。再現在re-currentな私/ワタシ。空間的には、自分と他人との関係が、自分(自我、自意識)と自分(自己、実存)との関係に折り返され、自分と自分との関係が、自分と他人との関係にまた折り返される。再帰的recursive。際限なく続く再現在、繰り返される再帰・・・永遠回帰でもある?


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The best way to predict the future is to invent it." (A.C. Kay)とすると、発明しないなら何しようが次善以下で、発明する気がないなら未来など考えるな、と言われているようにも思える。

身体性・精神性・霊性のフレームワーク (Somatic-Psychical-Pneumatic framework)

オリゲネスのソーマティカー(身体主義者)、プシュキカー(精神主義者)、プネウマティカー(霊主義者)を原意から外して、身体性・精神性・霊性のフレームワーク (Somatic-Psychical-Pneumatic framework) として使てみる。例えば、bio-psycho-socialに当てはめると、social = 霊 (pneuma)となる。一見よくわからないので、この関係を考えてみる。


霊 (spritus/pneuma) は厳密には抽象的で見えないものとしても、物質的ではないという意味では、イメージが代替になる。絵画、マンガ、アニメーション、そしてVR、果ては三次元像まで。霊性というとオカルトな感じだけど、説明的に使うならば、生命感や動きのあるイメージの豊かさというところか。アニミズム=アニメーション的な。その点、アップルの機械=器官は、アニメ的で、霊性高めてくれる感じがある。


pneumaticは英語で言うと、空気の・風のといった意味らしい。目には見えないけど、確かに感じる動きという意味では、霊と空気や風は似ている。もっと言えば、人間関係における「空気を読む」という表現も似ている。目には見えないし、固体的な物質ではないけど、何かしら感じるもの。空気も一見何もないように「見える」けど、原子理論・分子などを学んだ後は、O2などと表現される「分子なるもの」があるらしいと想定するようになる。


言語・言葉・言霊と並べてみると、文字による意味~音声・声調というスペクトラムを想定することができる。言葉にまつわる解釈としては、social = spiritus/pneumaとは声調:声による音楽のこと。「pneumatic=空気の」であり、文字通りの空気の振動。空気の振動としての音による関係としてのsocial。空気を共にし、空気の動きによって友となること。


これを音だけでなく光にも延長してみる。音(空気の振動)と光による伝達が、「空気の=pneumatic=霊的」であり、物理的な理解の補助線となる。そして、固体=個体同士の直接の接触ではなく、空気的な(pneumatic)接触としてsocialを考える。空気を媒介とした音と光を要素として交流するという意味での、pneumatic = social。文字によるlinguistic/semanticなものではない。まあ光には空気要らないんだけど。


生き物と生き物が、空気を媒介として(pneumatic)光と音で交信交流するプロセス(social)。かたや光と音という物理概念、かたや霊性という詩的概念を両脇に抱えて生物学(生命科学)の次元で解釈する。ここで、ひとまずの記号としてエーテルという記号を持ち出してみよう。エーテルという記号を、物理学(物質科学)と詩(霊性spiritus/pneuma)の間にある次元・・・生物学(生命科学)の次元・・・で使ってみること。生命科学の次元で、「霊性=光や音を感知する能力。特に生き物のそれ」と考える。molecular biologyに対するsonic/photonic biologyとして。


確かに世界=環世界=間世界は、光と音が満ちているという意味で、空気=pneuma=spiritus=霊が満ちている。spirits actually are all around. "spirits are actually all around"と考えれば、とりあえず世界は楽しい。理性的思考に対してはネガティブかもしれないが・・・副作用も多そうだ。

「子曰、知者楽水、仁者楽山。知者動、仁者静。知者楽、仁者寿」(論語 雍也篇)

山には多彩な光と音が満ちている。霊性を養うにはもってこいである(ソーシャルへ)。海は無限を感じる開放感がある。ロゴスを養うにはもってこいである(ソサエタルへ)。


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身体性・精神性・霊性のフレームワーク (Somatic-Psychical-Pneumatic) を愛にも当てはめてみる。身体的(生理的)な愛、精神的な愛、霊的な愛。生理的な愛・・・文字通り身体をattachする。代表的なのは性器をアタッチさせる営み。幼児の子育ても身体的なattachは多い。タッチでアタッチメントを養う。精神的な愛は概念的・・・知や価値に基づく。友愛的。霊的なものはどうだろう。

「なぜなら、友情が真の友情となるのは、あなたが与えたもうた聖霊によって、私たちの心に愛をそそぎ、それでもって、あなたによりすがる人々のあいだの友情をかためてくださる場合にかぎられるのですから。」(アウグスティヌス『告白』)


身体性・精神性・霊性のフレームワーク (Somatic-Psychical-Pneumatic) を、特に性愛関係に当てはめると、身体接触(セックス)、想像的交わり(自慰含む)、空気的接触(空間的に共にすること)。空気を媒介にして(pneumatic)、相手の光(姿)や音(声など)に恋/愛をする。初恋の時間がもっとも象徴的だろうか。確かに初恋の時間は霊的 (spiritual) なキラメキがある。pneumatic/spiritualな光や音を持続させるものとして絵/イラストや音楽がある・・・初恋を表現する媒体。

最後のキスは
タバコのflavorがした
ニガくてせつない香り

匂いもまた、空気を媒介するpneumaticなもの。somaticに近いpneumatic。



宇多田ヒカル - First Love

技術人 (Homo ars?) としての超人 (super-human)

電車であたりを見回すと半分くらいがスマホと(私も)。スマホって、自分の身体の一部。着脱可能な人体の「器官」。服やメガネや靴もそうだけど、違うのは反応性があるところ。特にiPhoneは官能的な反応性(response + ability )が高い。反応性が高いとanima/psycheを想定してspiritus/pneumaを見たくなる。霊=他者を見たくなる。自分自身の内なる器官でありながら、着脱可能で、霊=他者となる。


ヒトが作った技術によって拡張される『延長された表現型』としてのヒト=技術人(homo ars?)。ヒト/人/人間を超えつつ、なおかつヒト/人/人間である、という意味での超人 (super-human)。技術人の「表現型」に含まれる器官としての機械。着脱可能な器官としての機械。元の超人思想とはだいぶずれているけど、そういう誤読。器官=機械が魂や霊を持ち始める・・・自身の内なる他者の拡張。人間とは別様に、あるいは人間の彼方に。


「文字(律法)は殺す、霊は生かす」(パウロ)からの展開・・・文字=律法=コードによって霊を生かす。ビットからスピリットへ。
「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」(江副浩正
「自ら機械を創り出し、機械によって自らを変えよ」・・・延長された表現型としての技術人


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無限と有限。神と人。ヒトの有限性のひとつ、ダンバー数。social cognitionの有限性。ヒトの有限性。感覚器官の有限性(可視光の波長など)、認知機能の有限性(ダンバー数やワーキングメモリ)、理論的思考の有限性など。有限性への理解と拡張としての超人論。

未知の知

「それゆえに人間の神認識の究極は、人間が『自分は神を知らない』ということを知ることであり、自分が認識するかぎりにおいて、神が何であるかは、われわれが神について理解するすべてのことを超えていると知ることである。」(トマス・アクィナス

神という部分を、無限・自然・存在と言い換えてみる。無限・自然・存在の未知を感じること。無知の知と似ているが、あえて異なるものと解釈しようとすれば、未知にこそ価値をおくこと・・・既知や予知に回収しないで。


未知を尊重すること。おそらく自由の源泉のひとつだろう。既知や予知に回収しようとすることは自由に反することがある。まったくの未知=他者を投影するものとしては、「わけのわからないもの」「予測のつかないもの」・・・自然現象、異邦人、子供、狂気。未知=他者を感じることで、反応が予測できな自由な「たましい」を想定する。闘争やスポーツは結果が既知であるほど面白くない。未知の楽しみのひとつの例であり、「他者」との出会いの最たるもの。伝聞だけど、カール・バルトによると、「神とは『まったくの他者』」らしい。


しかし、未知のものは統治=コントロールとは相性悪い。叡智のひとつであったとしても、統治とどういう関係になるのかどうかはよくわからない。